Convento de San José
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日本への ドミニコ会士の 宣教活動の 歴史

「星に輝く使徒」
J・G・バリエス編を元にしたこの本は日本でのドミニコ会の歴史をとてもよく説明しています。

1.日本入国

1602年ドミニコ会士が日本入国するようになったのは、貿易関係設定のためにフランシスコ会士を通じて1598年から1600年にかけてマニラに働きかけた将軍・徳川家康の要請によるものと一般に言われています。(1)しかし歴史的史実から言うならば、むしろ将軍の意図に反して入国したと言えるでしょう。なぜならば薩摩の大名が、関ヶ原の合戦(1600年)以来の相容れざる敵として将軍に相談せずにドミニコ会士を呼び、これを自国の領内に入れたからです。その事情は以下の通りです。

 神学の教授であり、マニラ市に住むスペイン人のための説教師であるフランシスコ・モラーレス神父が、マニラのサント・ドミンゴ修道院で1601年の聖金曜日に、「キリスト十字架より引下ろされ給うこと」の説教を終えたとき、この神父は感謝の念に満ちて十字架の祭壇から離れようとしない数人の日本人を見て、それに心を惹かれ、深い印象を受けました。神父は彼らと話し、その結果、管区長ファン・デ・サント・トーマス・オルマーサ神父が彼らの郷里・薩摩の殿に書状を書き、もしその領内に修道士を迎えることが殿の意志であるならば、修道士を派遣しようと申し出ました。

 殿は1601年8月22日付で、喜んでドミニコ会士を迎えるから早く来るように、という回答を送り、そのために船を派遣しました。それはちょうどマニラのサント・ドミンゴ修道院で管区会議が開かれた4月下旬でした。モラーレス神父はすでにサント・ドミンゴ修道院長に選ばれていましたが、この会議で管区顧問に選出された。そして4月30日に新しい修道士34名からなる第七次布教団がマニラに到着しました。会議においては、このような事情を含めた日本布教の問題が大きな関心の的になり、新たな布教地創設に向けた様々な案が決定されました。その役目を果たすため、トマース・エルナンデス、アロンソ・デメーナ、トマース・デ・スマラガの諸神父および修道士ペドゥロ・デ・サンタ・マリーア(後に修道士ファン・デ・アバディーアに変更)が選ばれました。

 この5人の修道士は管区長の祝福を受けた後、1602年6月1日にビノンドで乗船して日本へ向かいました。聖な三位一体の祝日の前日の土曜日―「この価値ある使命を始めるのに極めてふさわしい日」でした。

 35日後、一行は1602年7月3日に鹿児島沿岸の西の甑島の一部落に到着しました。そこは、下甑と称される島の長浜町であると考えられています。すでに夜であったので、彼ら修道士のために宿が探され、日本人が信心を捧げている仏僧の家が選ばれました。「そこにある家の中で最上のものであった」ことから、それは今日中御座(ナカオザ)と称される土地にあったものと思われます(2)。

 その家の居住者は、後にその家を修道士達に家を明け渡しました。彼らはその家の中に祭壇を設け、そこに「大きな額に入っている非常に美しくて敬虔な聖母の画像」を安置しました(3)。これはフィリピン前総督ドン・ルイス・ペレス・デ・ラス・マリーニャスからの贈物としてもって来たものです。ここで彼らは聖母への賛美の祈りをし、そこで政務日課を行いました。

 翌7月4日、船長は殿に修道士たちの到着を知らせに行きました。神父およびその船で来たキリシタンの人びとは船の帆で海岸に天幕を張り、そこで誓いを立てた3つのミサのうちの第一のミサを捧げました。(4)


(1) UYTTEMBROECK, O.F.M. (Tom.), Early Franciscans in Japan, THE JAPAN MISSIONARY BULLETIN, vol. Ⅵ, pag. 126, Himeji, 1958
(2) 土地の人々およびドミニコ会士の記録による。
(3) ABADIA, o. c., fol. 61.
(4) ABADIA, o. c., fol. 56v.

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