Convento de San José
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日本における宣教

日本における宣教

17世紀の前半、正確にいえば1602年から1637年まで、35年間にわたった至聖ロザリオ管区の日本宣教はその400年の歴史の中でもっとも光栄に満ちたものである。それはローマ帝国によって迫害された初代教会が残した殉教史に匹敵する殉教史であり、管区に属する殉教者57名(司祭21、修道者9、第三会員27)のほか、ロザリオ信心会員やイエズスの聖名信心会員、宿主、同宿、神父の百し使いといった管区にかかわりある殉教者は186名以上を数える。短いが、迫害の中でカトリック信仰を血でもって証しする宣教であったと言える。そして至聖ロザリオ管区の宣教の終わりは、同時に日本におけるカトリック宣教の終わりでもあった。なぜなら1638年4月14日、原城が陥落すると、徳川幕府は徹底的な禁教と鎖国を実施したからである。しかし、密かに信仰を保つ人々の心の中に至聖ロザリオ管区の宣教は生き続けた。それはロザリオの信心で、それを証明する1通の手紙がある。台湾とルソン島の間にあるパブヤーネス諸島の宣教師ディエゴ・サンチェス神父が1671年8月に管区本部に出した報告書に「バターネス諸島の1つの島に日本船が漂着したが、乗組員全員がキリスト信者で、ロザリオを首に掛けており、ここに滞在中は毎晩ロザリオの祈りを熱心に唱えていた」とある。さらに管区の宣教師はカトリックとプロテスタントの区別をしっかり教えこんでいた。すなわち、カトリックは3つの印を持っていること、司祭の独身制、諸聖人への崇敬、ローマ教皇への従順。キリシタンたちが200年間この教えを忠実に守ってきたことを歴史が証明する。

(1)ドミニコ会宣教が始まった頃の時代背景

16世紀の後半、足利幕府が崩壊した後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと「天下人」の座をめぐって政権抗争が続いていた。1549(天文18)年、聖フランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリスト教は織田信長によって保護され、京都に南蛮寺が、安土にはセミナリオが設けられた。1582(天正10)年、九州の大友、大村、有馬の3大名がローマ教皇に使節を派遣した年、信長は本能寺の変で死ぬ。秀吉の天下となると、1587(天正15)年7月24日、宣教師追放令が出され、長崎のイエズス会領が接収されたが、宣教は黙認されていた。奇しくもこの日の3日前に至聖ロザリオ管区の創立者たちがフィリピンに上陸し、やがて日本において多くの殉教者を出すのは摂理というものであろう。1596(文禄5)年、スペイン船サン・フェリペ号事件が起こり、翌年、長崎で二十六聖人が殉教する。
1598(慶長3)年、秀吉が伏見で死去すると、天下は徳川へ移った。家康はスペイン・ポルトガルとの通商を求め、宣教を黙認していた。1612(慶長17)年、岡本大八事件をきっかけに、幕府はキリシタン禁教令を出し、またカトリック国スペイン・ポルトガルに代えてプロテスタント国オランダ・イギリスとの通商を求めるようになった。2年後、家康はさらにキリシタン禁教令を発し、全国の教会を破壊、多くの宣教師と高山右近らをマニラとマカオへ追放した。秀忠、家光の時代には益々きびしい迫害となり、京都で52人、長崎で57人、江戸で50人のキリシタンを処刑したのである。1637(寛永14)年、天草、島原一揆がおこり、翌年、原城が陥落する。幕府は鎖国令を発布し、踏み絵、懸賞金つきの密告制、五人組制度や壇家制度を設けて全国的に宗門改めを始めたが、これは1873(明治6)年のキリシタン禁教令廃止まで続くのである。

(2)日本に初めて来たドミ二コ会士

日本の地を最初に踏んだドミニコ会士はフィリピン総督が豊臣秀吉のもとに派遣した使節ファン・コボ神父である。1592(文禄1)年、秀吉はフィリピンに書簡を送り、臣従して入貢しなければ遠征軍を差し向けると脅迫した。これに対してフィリピン総督ゴメス・ペレス・ダス・マリニャスはフアン・コボ神父を使節として把前名護屋にいた秀吉のもとに送った。神父は質素な修道服に身を包みながら、威厳のなかに毅然とした態度で「スペイン王と国民は臣従するよりも、死を賭して闘うであろう。しかし、友好を結ぶならば信義を裏切ることは決してしない」と述べた。秀吉はその態度に心を動かされ、彼を歓待して帰した。マニラへの帰途、神父は台湾近海で遭難し、死亡してしまった。
さらに、1596(文禄5)年、土佐の浦戸湾に漂着したサン・フェリペ号に乗り組んでいたマルチン・デ・レオン神父が、乗組員たちと共に収容された古い寺で、仮祭壇を設けてミサを捧げたと記録されている。300年経って、1904(明治37)年、再び日本宣教のためにやって来た至聖ロザリオ管区が宣教本部を高知に設置するが、この地においてドミニコ会神父がミサを捧げていたことは不思議な縁と言えよう。

(3)ドミ二コ会による日本宣教の問題点

聖フランシスコ・ザビエルの来日以来、日本宣教はイエズス会によってのみ行われ、豊後府内(大分)と長崎に司教座が設立されるまでに発展していた。1580年の豊後教会会議、1581年と82年の長崎教会会議の決議により、イエズス会巡察使アレハンドロ・ヴァリニャーノが教皇グレゴリオ十三世に進言した結果、イエズス会士以外の宣教師が日本に渡航することを破門罰で禁止する勅書が1585年1月28日に出された。多くの修道会員が異なる修道服を着て違った宣教方法を取れば、信徒が混乱し、反って宣教を妨げることになるという理由からである。しかし、1582年、平戸に来た最初のフランシスコ会士ポブレ神父は会の精神である「清貧」に徹した生活で多くの人々の心を引きつけ、領主の松浦鎮信もフランシスコ会の派遣を要請していた。また1593(文禄2)年には日比修交協定締結のために来日、秀吉の許可のもとに京都で宣教し、長崎で殉教した聖ペドロ・パウチスタたちを出したフランシスコ会は特に日本宣教を強く望んでいた。
また、1587(天正15)年、長崎から11名の信徒がマニラにやって来て、サラサール司教に「日本では司祭の不足から日本人キリシタンが秘跡を受けることなしに死んでいく。イエズス会以外の修道会があることを知らなかった。他の修道会も日本に来て欲しい」と訴えた。そこでサラサール司教はマニラにある諸修道院長を招集し、フランシスコ会を中心に他の修道会の日本派遣を協議し、次のような抗議文を在日イエズス会管区長に送った。「日本では神父の不足から人々の救いに重大な支障をきたしていることを教皇に知らせないで、なぜこのような勅書を願ったのか。日本で働く貴会の宣教師の数が60に満たないのに、他修道会に援助を求めようとしないのはなぜか。また異なる修道服や活動様式が信徒を混乱させるというが、かかる変化のある服装や活動にもかかわらず、同じ神に奉仕し、同じ教えを信じ、教えていることこそ日本人に感化を与えるものと考える」。
同年9月に、マニラに来た3人の日本人キリシタン代表が「日本人はフランシスコ会の清貧と愛の姿、ドミニコ会の深い学識と謙遜、そして肉食をしない修道士が来ることを歓迎し、宣教事業も成功すると思うから、教皇にその許可を願って欲しい」とサラサール司教に懇願した。そこで司教はイエズス会以外の修道会を日本に派遣する必要性を教皇と国王に上奏したのである。

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