| 創立とその意義 | A. ドミニコ会の経歴 B. 霊父ドミニコの外貌と霊的人格と精神 C. ドミニコの使命とその意図 a. ドミニコ独自の希望と使命 b. 創立者としての意図 c. ドミニコ会 信徒会 |
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A.ドミニコ会の経歴
ドミニコはスペインの北部にあるオスマの町で司祭となりました。1195年、オスマの町には司祭ディエゴのもとに指導されている司教座聖堂参事会員が30~40名位いて、司教と共にその教区の指導をしていました。その会員の一人であったドミニコは、25才位で若く非常に熱心でしたので司教は彼をその会の副院長に任命しました。彼は司教や参事会員と共に祈り黙想しながら、信者達の指導にあたりました。
1203年頃、ディエゴ司教に伴われて北ヨーロッパに旅立ち、その途中にフランス南部のツルーズを通りかかった時、異教徒達に出合い、ショックを受けました。その地方一体に異教が広がっており、とりわけ、ツルーズ地方はひどい状態でした。町に着いたその夜、ドミニコは異端者である宿屋の主人と長い時間議論しました。彼の話は真実に溢れ非常に熱心でしたので、その人はドミニコの精神と知識に対抗することができなくなり、神のあわれみにより、真実の信仰をとり戻すことができました。この体験がドミニコに勇気と自信を与え、やがては自分の会を創立するきっかけとなりました。このように福音の真理のみが心を照らし正しく導くことができるのを神のみ恵みにより更に強く感じたドミニコは、数年後に創立した自分の会の兵庫を「真理」と定めました。
2年後にドミニコは再びディエゴ司教と北の地方に出かけました。この旅の目的は達せなかったのですが、その時二人は相談してスペインに帰らずローマに行くことにしました。そしてディエゴ司教は教皇に自分が司教職をやめ、ドミニコと共に迷っている羊のために宣教師になり、み言葉を宣べ伝えたいと許しを願いましたが、教皇は許しませんでした。
スペインに帰る途中、フランスでシトー会の数人の修道士に出合い、ディエゴ司教は司教としての任務は続けながらもシトー会の会員になろうと決めました。ドミニコは会員にはなりませんでしたが、今までは参事会の副院長と呼ばれていた彼は、単なる「兄弟(ブラーザ)」と呼ぶように願いました。ドミニコは1206年頃、モンペリエでシトー会員と清貧について話し合い、彼らのやや贅沢な生活を改めるように注意しました。確かに異端者の言っている清貧の精神を守らなげれば、決して庶民の心を導き動かすことはできないということを彼らに強く主張しました。
一方、シトー会員となったディエゴ司教も彼らに対し「皆様、私の判断では正しい道は決して贅沢な生活ではない。いかに立派な会員であろうとも清貧でなくてはならない。人々は言葉よりも行いを見るであろう。清貧の徳と福音の真理を偽って純真な霊をそそのかしている異端者を見よ。正反対の有様を見せれば建設できるものは少く、反対するものは多く、得るものは何もないであろう。針はもう一本の針で抜け、偽りの徳に真実の徳をぶっつけよ」と厳しく言いました。これを聞いてシトー会員達は強く心を打たれ、ディエゴとドミニコと共に、異端者の回心に努めるようになりました。モンペリエから出た二人は、いくつかの町を訪ね、夜になると自分達のまわりに指導的立場にある異端者達を集め真理をつげ知らせました。
この時からドミニコは、オスマの参事会を離れ、異端と戦いながらキリストへの真の信仰を人々に宣言していくことを決心しました。モンペリエからルボン、カルイカソン、モンレアルへと歩き、どの町でも異端者を集め論じ合いました。討論会を開くということは、その時代、最もふさわしい手段とされていました。何故ならば、み言葉について一番うまく話して勝利を得た人の方へ人々が集まったからです。
モンレアルでは異端者の指導者達と二週間に亘る大討議会を行いました。ここでは、激しい言葉と脱線を防ぎ、進行を早めるために、質問と答が全部書かれており、双方が互いにまとめて読み合いました。ある夜のこと、ドミニコが書いた文章を異端者に渡そうとすると、一人の男がそれをとって火の中に投げ入れたのですが不思議とそれは燃えなかったそうです。これを見た人々は大いに驚き、彼こそイ工ズスの弟子だと認める人が大勢出てきました。
「み言葉には救う神の力がある」という聖パウロの言葉はドミニコにとって深く印象づけられたのでした。イエズスでさえもどんな困難にぶつかっても町から町へとみ言葉を宣べ伝えたのです。ドミニコ自身もいかなる困難や失敗にもくじけずに、イエズスと同じ道を歩もうと決心しました。
町から町へ、村から村へと歩みながらみ言葉を宣言すること、つまりイエズスにならいながら歩く説教者になるということは、その時代では革命的なことでした。何故なら当時、教区司祭は自らの教区の範囲の中だけで、他教区に自由に出かけてみ言葉を宣べ伝えるということはできませんでした。しかし小さい町や村などでは、み言葉をききたくてもきく機会がなく、これを知ったドミニコは、彼らのためにも是非説教者にならなくてはと思いました。又、正しく福音を宣べ伝えるためには、み言葉を理解する知識が必要であり、同時に相手を尊敬し、謙遜、忍耐、清貧の態度をもって接しなくてはいけないと考えました。
モンレアルから8キロばかり離れた異端者の多いファンジョーという小さな町に着いたディエゴ司教とドミニコは早速教会を訪れました。驚いたことに、そこには以前から司祭がいませんでした。前にも言いましたように貴族達が、司祭も連れて都市に行ってしまったからです。そのため、田舎の人々はみ言葉をきく機会がありませんでした。彼らのために二人はしばらくの間、そこに留まることにしました。
司祭が来たことを知った町の人々は、ぞくぞくと集まって来ました。その中には異端者の婦人もかなりいました。信仰と言うよりも、好奇心であったのかもしれませんが、ドミニコは、失敗を覚悟してみ言葉を宣べるとむしろ彼女達は、異端を捨てみ言葉を受け入れるようになりました。
そんなある日の夕方、聖堂の玄関のところに坐っていたドミニコは考え事をしていました。ふと頭を上げてみますと4キロ程離れたプルイユの方に不思議な印があらわれ、プルイユの聖堂の上に火の玉が下るのを見ました。初めドミニコは夢ではないかと思ったのですが、三日間も同じ現象が続いたので、これはきっと天からの印に違いないと思いました。プルイユの方がファンジョーよりもみ言葉を宣べるのによいのではないかとドミニコは、咄嗟に思いつき、ディエゴ司教に相談しました。司教は数日後オスマに帰らねばならないことをドミニコに告げました。ドミニコは、すばらしいこの司教との出合いを感謝し、大変苦しみましたが、やがて別れることになりました。
一人になったドミニコは、プルイユでみ言葉を宣べ伝えるようになりましたが、この期間は短かく、一人二人と彼に協力する人は次第に増えてきました。それのみではなくドミニコはディエゴ司教の援助により、このプルイユに女子修道院を建てることになりました。
ドミニコは、異端者の婦人達が非常に熱心であり、彼女達は主人に仕え励ましたり、子供達を教育するのですから、ここからみ言葉を宣べ伝えるならば確かに早く広がって成功するに違いないと思いました。その通りでした。聖週間の前にファンジョーで改心した九人の婦人達はドミニコに指導を乞いました。その間にツルーズの司教フルクはプルイユの聖母マリア教会とその附近の土地をドミニコに譲っていましたのでドミニコは教会のそばに修道院を建て、その九人の婦人達を住わせ簡単な会則をつくり、これに従って生活させるようにしました。
これは1208年頃のことであり、前にも書きましたようにこの年のはじめ、ツルーズのレイモンド伯爵が教皇使節、カステルノのペトロを殺し、このことによりイノセント3世は十字軍を組織し、力を合わせて異教徒との戦いに当たりましたが、非常に残酷なものでした。教皇はこれを見て、武力による残酷な行為でなく、み言葉によって戦うように願っていました。ドミニコも武力ではなくみ言葉の力で戦おうと三人の同志者と共に宣教生活を約8年位、続けました。この時はまだ公に男子修道院を建てたというわけではありませんでした。
ドミニコと三人の同志者達は、ツルーズを中心として近くのファンジョー、モンレアル、カルカソンなどにも行き異教徒の迫害にもたびたび合いましたが、彼は、マタイ福音と聖パウロの手紙、聖務日祷のみを持って、清貧の生活のうちにただ、宣教に励みました。それはアルビ派に対抗するためではなく、キリストに倣うためでした。その上、プルイユでは幾人かの修道女達が、犠牲を以て霊父ドミニコのために祈っていたことに大きな信頼を持っていましたし、自分の周りには、数名の同志者もすでにいました。フルク司教がプルイユ協会を譲っていましたのが1207年のことであり、1214年ファンジョー教会を彼らに委せました。その半年後に、司教はツルーズにあるもう一ヵ所の教会もドミニコに譲りました。ツルーズは十字軍の戦いにより異端者の数も減ってきましたし、み言葉を宣べ伝えると共に、新しい教会を形造る時がきたのではないかと考えて、彼はツルーズに移ることを決めました。
1215年、ドミニコ達はフルク司教の許可を受け、実行に移しました。司教は、彼らの信仰の深さと宣教に対する熱意をみて、新しい光が出現したことに強く感動し、彼らのために日常生活に必要なものを配慮いたしました。一般信者の援助もあり、その中にセイラのペトロという一人の金持ちの信者は、ドミニコ達に自分の屋敷を与え、ペト口自身と一人の友人トマスと共に彼らに従いました。これでグループは六人になりました。これは1215年の秋のことでした。
同じ年の秋、フルク司教はラテランの第4公会議に参与するためドミニコを伴ってローマにでかけました。サクソニアのヨルダヌスによりますと、これは教皇イノセント三世にドミニコとその同志達のために「説教者兄弟会」を認可して下さるように願うためでした。7年間にわたってこの地方で言葉を宣べ伝えたので、段々人材も集まってきましたし、新しい修道会を創立するということになったのです。教皇はその願いをきかれて大層喜ばれ、ドミニコに「同志者達のもとに帰って共に討議し、一同賛成をもって既に定められている会則を選んで決めるようにし、又、あなた達が仕事をするための場所をいただくようにフルク司教に願いなさい」といわれました。
この教皇の言われたことにドミニコ会の霊性のために非常に大切な言葉が含まれています。先ず「同志者と討議し、一同の賛成を得てから決めなさい」と言うことですが、当然のことだと思うかもしれませんが、その当時は、例外的なことでした。例えば、ベネディクト会とかシトー会をみますと、やり万は全く違ってすべて上から決められていました。ドミニコは「修道会」をつくるというよりも、もしろ「兄弟会」をつくりたいと考えていたわけですから、これは教会における修道生活におて全く新しい見方であり、彼の望んでいたやり方であると非常に喜びました。つまりドミニコが創立しようと考えていたのは、まさに「説教者兄弟会」でした。
次に教皇様のお言葉で注意すべきことは「すでに決められている会則を選びなさい」ということですが、これは既に認めた会則(あるいは戒律)に対する教会の尊重をあらわすためであり、新しい修道会が会則を土台として伝統的な前の修道会とつながりを持ち、絆がでてくるように求められたのです。又、当時、新しい修道会が多くそれぞれが勝手に新しい形をつくることがないようにするためでもありました。ドミニコは素直に教皇の願った通り、兄弟と討議し、アウグスチヌスの戒律を選びました。何故かと言いますと、オスマの参事会会員の時にその戒律に従って生活をした経験もあり、調べてみるとやはり巾広い戒律であり、会の目的と要求に十分かなったふさわしいものでした。
第四ラテラン公会議開催中、「キリスト信者の救いに関する事柄の中で、定期的なみ言葉の宣教は最も必要なことである」という主旨のメッセージにドミニコは大変喜びました。と言うのは司教自身も、み言葉の宣言をするのは、たびたび間に合わないさまざまな理由がありました。例えば彼らの仕事が多すぎること、あるいは年老いた牧者には身体的な妨げがあること、又敵の攻撃に適当に処理するために、み言葉に対する知識が足りないことなど、司教だけが、この任務を果たすのが不可能でした。
従って教皇は司教達がみ言葉の宣教という聖なる任務を立派に引受けるためには、積極的な人々を集めるように努力することであり、このために教会は司教が有能な人々を集め、その司教達の協力者として彼らを用いることを命じました。正にこれはちょうどドミニコが教会に願ったことでした。つまり、教皇は司教に協力者を選ぶように言われたのです。これにより、ドミニコ会の会憲1の5に、司祭となった時は、司教の協力者とし予言的な仕事をすることが我々の任務であると記されています。
ドミニコとその兄弟達は、アウグスチヌスの戒律のもとに、日常生活に取り入れる習慣や遵守事項を選び、それらをまとめてみました。その後1216年、ドミニコは教皇の認可を得るために再びローマに行きました。イノセンシオ三世に代わってオノリウス三世になっていました。ドミニコは創立する会について、自らの意向を宣べて説明し、大体次のようにまとめてよいと思います。ドミニコが創立しようとする会は
1.兄弟会であること(従来の修道会ではなく)
2.観想的及び同時に活動的会であること
3.教皇庁に直属する会であること(教区との独立すること)
4.肉体労働のかわりに、み言葉を深く研究する会であること
5.会則は聖アウグスチヌスの戒律に基づく会であること
などです。各々の点について次に詳しく説明しましょう。
1217年1月17日、オノリウス三世は次の言葉をもって承認されました。「神のしもべである私は、ドミニコ並びに共同生活を営むことを既に公にし、又、将来公にしようとするあなたの兄弟達に挨拶と祝福を送ります。私はあなたとあなたの許に集まってくる兄弟達が、信仰の保護者、又世界において真理の光となることを信じます。会にあり又将来必要な土地と所有物を確認し、会自体及びすべての物資と権利を共に私の保護の下におく。これは教室庁に直接に属することを意味します。ある地方の司教や責任者の下におくのではなく、私の保護の下にあなたとああなたの兄弟たちが主に深められ、説教者としての任務を熱心に果し、み言葉をいつどこにでも宣べ伝えるように…」ということでした。
この言葉にドミニコがどれほど喜んだことか、おわかりになるでしょう。ドミニコはツルーズの町に戻りみんなと一緒にしばらくすごしましたが数ヵ月後、即ち1217年8月15日、ドミニコは自分の下に集まっていたわずか16人の兄弟達をパリ、マドリッド、ボローニャなどに送り、この小さな集まりを分散しました。他から見れば、大変無責任な行為に見えたことでしょう。すぐに分散すれば力がなくなり、賢明でないと考えた人もありましたが、しかしドミニコは、キリストと共にいるのですから、どこへ行こうとキリストは助けて下さると考えたのです。これについて当時のドミニコ会士フェルナンドは|聖霊の啓示により、余り学識のない兄弟を大学に送り、み言葉を深く研究させ、豊かに宣べ伝えることができるように願った」と語っています。
一年後、ドミニコは、スペインを訪れ六ヵ月ぐらいとどまり、パリに行きました。ヨルダヌスによりますと、1218年、ドミニコはスペインに二つの修道院を建てました。一つはマドリッド(現在は女子修道院なっています)に、そしてもう一つはセゴビアでした。これらは、スペインに於ける最初の修道院となりました。そしてパリに寄り、そこで30名の新しい兄弟達に出合いました。最初にパリに送ったのは四、五人だけでしたのに、一年経たないうちにその数は30人に増えていました。パリからイタリアのミラノ、ボローニアに行き、1220年の冬再びローマに行き、聖サビナの男子修道院を設立し、聖シクストの女子修道院をも建てることを計画し始めました。伝統によりますと、1220年の冬か、あるいはもう少し前かもしれませんが、ドミニコとフランシスコがローマで初めて出合ったそうです。ドミニコはフランスシコの清貧に深く感動し、フランシスコはドミニコのみ言葉に対する深い知識に感嘆し、互いに影響を与え合ったそうです。
1220年5月17日にドミニコはボローニアで最初の総会議を収集しました。多数ではありませんでしたが、各修院から4人程の兄弟が集まり30名近くになりました。この初の総会議での主な内容は、組織総長の権利と権威と会の目的などについて討議されました。自分のもとに集まった兄弟達を見てドミニコは非常に喜び、彼らは自分の冠だと言って神に感謝したそうです。同じ頃、ヨーロッパの大都会のパリ、ローマ、マドリッドなどにはドミニコ会の男女会員がおり、聖霊のお働きによってさらに広がってゆくであろうことにドミニコは大きな希望を持ちましたが、その一方では不安が伴いました。それは財産のことです。
兄弟達は、み言葉を宣べ、人々を導きましたので、人々は喜びと感謝の印として、日々の生活のために食物のみか土地や建物までも提供してきました。これらの好意を受けることは、決して悪いことではありませんが、そこに危険性があることをドミニコは心配しました。つまり、物質的なものに結ばれてしまうと、み言葉を宣べ伝えるために動くことが難しくなります。キリストのために貧しくなった人は、より自由にいつどこにでも、み言葉を伝えに行くことが容易にできます。
ドミニコは総会議に出席した兄弟達に、個人として団体として財産を所有する権利を放棄することを願いました。これ大切な相談でしたが、決して総会議の中心ではありませんでした。何故なら貧しさはドミニコ会の目的ではありません。無論み言葉を宣べ伝えるための手段として貧しさが大事ですが絶体的ではありません。
1221年四月末に第2回目の総会議がボローニャで開催され、50人がこれに出席しました。第1回目の総会の中心は会全体に関すること一般的な組織と一致でしたが、今回の中心は会と各地方に於ける分担についてでした。即ちグループのつくり方です。それぞれのグループを管区と名付け、管区の長上を管区長と呼び、これを統治するのは管区会議と呼ばれます。(当時の管区はドイツ、フランス、スペイン、ロンバルジアの管区でした)
5年間に五つもの管区ができたのは素晴らしい恵みです。第2総会議において、イギリス、ダニッシュ、ボローニャ、イタリア、ギリシャに兄弟を送ってそこで修道院をつくるようにと決議されました。これによってドミニコ会は、ヨーロッパの諸国に広がっていきました。
総会議終了後、ドミニコはボローニャの郊外でみ言葉の宣教をしましたが、1221年7月28日ドミニコは病気になり、ボローニャの修道院に帰りました。その修道院の一室をいただきそこで休みましたが病状はだんだん重くなり、ここが彼の最期の場所となりました。1221年8月6日兄弟達を身近かに呼び、修道会を守ってゆくこと、常に徳を行うようにすすめ、遺言として、"愛徳をもって、謙遜を守れ、自発的な清貧を抱け”という言葉を残して静かに息をひきとりました。
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