| 創立とその意義 | A. ドミニコ会の経歴 B. 霊父ドミニコの外貌と霊的人格と精神 C. ドミニコの使命とその意図 a. ドミニコ独自の希望と使命 b. 創立者としての意図 c. ドミニコ会 信徒会 |
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C.ドミニコの使命とその意図
a.ドミニコ独自の希望と使命
ドミニコは、ディエゴ司教と全ヨーロッパを訪問した際、北の国々に宣教師が少ないのを見て、これではいけないと思いました。二人はローマに着いた時、教皇に自分達を宣教師として派遣してくれるように願いましたが、教皇は、これを断わり、当時イタリアや南フランスにはびこっていたアルビ派異端と戦うように二人に願い求められました。二人は、教皇の命令により二年間他の司教と共に働きました。1209年、ディエゴは帰国し、ドミニコは一人そこにとどまり働き続けました。一年も経たない間に数人の仲間が、ドミニコの熱心さに感動し、共に働きたいと集まってきました。
ドミニコは、ある日、仲間達に今まで考えてきた、新しい修道会創立の方針についての希望を語りました。これは急に考えた訳でなく、司教と共に働いた二年間程の間に次第に実ってきたものでした。だからと言ってドミニコは、宣教師になることを断念したわけではなくいずれこの希望は実現するでしょうが、一時延ばすことにしました。
1217年、ドミニコは新しい修道会創立の許可をいただきにローマに行く途中、若く熱心な司祭、サビアのギョームに出会い、二人の友情は深まり、ドミニコはギョームにかつてから抱いていた北の国々への宣教について語りました。ギョームはこのドミニコの考えに賛成し、共にこの希望を果たそうと勧めました。ドミニコは、新しい修道会の土台をつくり、会員達にすべてを任せてギョームと一緒に北の国々への宣教に出かけることにしました。
しかし、この点については、神のみ旨は少々異っていました。と言うのは、1221年、病床にあり死の近づいたとを悟ったドミニコは、この約束を果たすことについて、自分の代りに会員達を派遣することにしました。このドミニコ自身の固有の希望と使命はその後のドミニコ会全体に、深い影響を与えるようになりました。ドミニコは、当時の教会の緊急を救う必要性、つまりアルビ派の異端と戦うために、個人的な希望とカリスマを捨てざるをえなかったと言うよりも本会の兄弟姉妹を通してこの希望を成し遂げたのです。要するに、宣教師になるということは、ドミニコ会にとって非常に大切な賜物であり、同時に個人的なカリスマであり、本会にそのカリスマが生きているのです。
b.創立者としての意図
前に述べたようにドミニコの創立の意図は急にということよりも、徐々に進んで行きました。初めはただ、ツルーズとその地方で布教に役立つ道具となりたいという希望をドミニコは持っていたのですが、アルビ派の異端を知り、信者のために何とかしなくてはいけないと思い、ツルーズの司教フルクに事の詳細を述べ、これに対し共に異端者を改宗させようという小さな計画をたてたのです。
1208年、イノセント三世は、ヨーロッパの司教達に次の三つの事を願いました。
それは、
(1)司教達の異端者に正しい教義を教え、彼らが一日も早く教会に戻るように努力すること。
(2)カトリックの信仰を各自の教区の人々に熱心に宣べ伝えること。
(3)信者達が福音に基づく道徳的生活を送ることができるように指導することです。
1209年、アビニオンで開催された公会議でも同じことを何度も繰り返して願いました。南フランスの司教達は、1209年~1217年まで、各自の教区において熱心に働きましたが、自分達の力だけではとても勝利を得ることが難かしいと悟り、教皇に協力者を送って下さるように願いました。
彼らの要求のタイミングは丁度良かったのです。何故なら、その要求がローマにとどいた時、ドミニコもローマにおり、新しい修道会、つまり説教者兄弟会の創立の認可を教皇に願うところだったからです。教皇は、ドミニコの願いを聞いて非常に喜び、ドミニコが教会の名によって会員と共に司教たちに協力してみ言葉を宣べ伝えるように許可されました。数日後、ドミニコは修道会創立の許可を得て南フランスに帰り、司教に報告して一緒に働くことになりました。
そして次に、この時から地方の教区のみに限らず全世界の人々にみ言葉を宣べ伝えたいとドミニコは会員と相談し考えたのです。つまりドミニコは、新しい修道会がある特定の地域的宣教にとどまらず、普遍的なものであるように望んだのです。
本会の宣教が一般的、かつ普遍的なものであるように、いろいろな地方に行って深い研究をなし、いつどこででも宣べ伝えることができるようにドミニコは会員達に願いました。ドミニコは「地の果てまでも私の言葉を宣べ伝えなさい」と言われたイエズスのみ言葉に素直に従ったと言えましょう。その後継者であるわたし達は、ドミニコのたてたこれらの意図を十分生かし努力しなければなりません。彼が私達を信頼し、任せられた精神、計画、その意図を実行出来る力をいただく恵みを常に願うのは、益なのです。
c.ドミニコ会信徒会
ドミニコ会は一本の大きな木であり、その木には三本の太い枝がついているとしましょう。
1.司祭と司祭でない(助修士)男子修道者の枝(このグループは第一会といわれ、)
2.観想の修道女の枝(第二会と言われ、)
3.活動の修道女と一般信者の枝です。(第三会と言われます。)
以上は、同じ権利と義務を持っていますが、役割が異なっているだけで、ドミニコ会は神のみ前に三本の太い枝から成り立っている一本の木です。聖書にありますように、賜が違っても霊は同じです。ここでドミニコ会と関係深く信徒会と呼ばれている第三会の起源と発展について少し話しましょう。
12世紀頃(ドミニコより以前ですが、日本では鎌倉時代である)ヨーロッパの国々では、都会化の運動が起り、人々は田舎から、パリ、ローマ、マドリッド、ロンドンなどの大きな町へ移転してゆきました。前にも書きましたように、貴族の人々は都会に出てきて町に宮殿や城を建て、日曜日のミサのために田舎から司祭を呼び寄せ、霊的指導者に任命していました。司祭のいなくなった田舎の人々は牧者を失った羊のようになってしまいました。信者達は非常に信仰深く素直でしたが、いつも傍に牧者がいなければ迷ってしまいます。この人々を助けようとする諸グループの運動が起こってきました。例えば、1170年、イタリアの謙遜団の会、又、1203年にベルギーでベガという一人の人は、自分のまわりに人々を集めてつくった、ペギン団などがあります。
これらの信心深い諸団体の人々は村から村へと歩き乍ら、庶民を励ましたり、信仰を強めたりして霊的指導をしました。彼らは、貴族や教会の聖職者達の富をみて、疑問を持ったこの新しいグループのメンバーは清貧を重んじ、しいたげられている人々を助けました。彼らが求めた清貧の精神は、後に生まれた托鉢修道会(ドミニコ会、フランスシスコ会など)に影響を与えたと言って良いと思います。
彼らの指導者達は、持っている物を貧しい人々にほどこし、清貧の精神によってキリストに従ったのは良かったのですが、次第に極端な様子を表わしはじめました。なぜなら彼らは一般信徒なので、傍に牧者がいなければ、遅かれ早かれ迷ってしまうのです。人々を励まし、一緒にやるどころか、やがて、非常に厳しい批判をもって、人々を裁き始め、だんだん教会から離れて異端に傾き、司祭職、ミサ、誓願、勉学、結婚などを否定して庶民をまどわせました。アルビ派が広まった理由もそこにあると思われます。丁度、その頃、ドミニコがあらわれ異端と戦う修道会を創立することになりました。
勿論、このようなグループの人々が皆、異端に走ったのではなく、その最中で正しい信仰を固く守った人々も多数いました。ドミニコは、このようなグループの中にいた4、5人を自分のもとに呼び寄せ、彼らの信仰を深めたといえるでしょうが、「聖ドミニコ信徒会」の会員として、彼らと一緒に教会の仕事をしたとは考えられません。
「聖ドミニコ信徒会」(当時第三会と呼ばれたのですが)を創立したのが、ドミニコご自身であると長い間思われましたが、事実は異なっています。霊父ドミニコが帰天された六十年の後に「聖ドミニコ信徒会」は誕生し、生んでくれたのは、いわば信者の諸グループを統合したのは、教皇ホノリウス4世の熱心な希望を満たそうとしたドミニコ会の第七代総長のミュニオ・ド・ザモラでした。これは1285年でした。当総長は信徒達のために会則をつくり、彼らの指導のために魂の導き手を与えたので、メンバーはますますふえて来ました。ここに疑問があることを感じる方がいるかも知れません。「ドミニコ会は『聖ドミニコ信徒会』を承認することが、ドミニコの考え方をゆがめたことになったのでしょうか」と云うことです。決してそんなことはありません。ドミニコの時代には、さほどさし迫って必要と思われなかった「聖ドミニコ信徒会」はその後の経験、教皇の懇望、あるいは時代の要求によって重要視されてきました。ドミニコの後継者達の目には、ドミニコ会の家族のなかで生まれ、十分に成長するのを見守り育てていかなければならない新しい枝として見えてきました。
「聖ドミニコ信徒会」会員には男女いづれもいますが、援助の内容は、男子は教会を建てたり、異端者に捨てられた教会を修繕したり、子供のために学校を建てたりしました。女子は学校で教え、病人を見舞い、香部屋係や祭服の縫製などをしました。
初め、これらの人々はグループとしてよりも自発的に自由な時間に奉仕しました。又、ある未亡人は自分の家を提供し、ドミニコ会の仕事をするためにそこに5、6人集まり、一緒に生活するようになりました。このグループに修道士が加わり霊的指導をしてくれるようになり、やがて彼女達は、修道者と同じ時間沈黙を守り、同じ時間研究し、祈り働くようになりました。正式の修道生活でなくても実際にそのような生活をしており、時の流れと共に形が出来てきました。このグループに入るためにノビシア(修練期)のような期間も必要ではないかという要求もでてきました。
ノビシアとして一年過ごし更に六年間は同じ所に留るなどの約束がつくられました。又、頭(かしら)の必要性も生まれ、長上というよりも責任者や担当者も選ばれました。雰囲気が非常に良かったのでグループのメンバーは急に増えてゆきました。
正にあの時代の緊急に答えたやり方であったと思いますが、迷える信者の多かった当時、あのような異端者のすすめや教えを嫌い、真直ぐにキリストと共に歩みたいと考えた人々は多く、小さなグループがあちこちにできました。シエナの聖カタリナの時代、つまり14世紀頃は、このようなグループは大いに増えたのです。
「聖ドミニコ信徒会」には、在俗信徒会と律修信徒会があり、前者はドミニコ会のメンバーですが修道者ではありません。世俗に生活している男女会員として、特別な会則に従いつつドミニコ会の精神とその目的を生かすようにつとめます。後者は世を離れて修道院で生活し正当な会則、会憲を守り乍ら、定められた事業を通してみ言葉を人々に宣べ伝える女子のグループであり、一般に「ドミニコ信徒会のシスター」と呼ばれています。
15世紀頃まで「聖ドミニコ信徒会のシスター」はまだ誓願をたてませんでしたが次第に形が出来て約束が誓願になりました。その約束の期間は短くて三年から五年位でその期間が過ぎたら自由に世間に出ることも出来ました。それは教会の認める誓願がなかったからです。やがて、信徒会のシスター達は観想のシスター達(第二会)が使っていた会憲を使うようになりました。しかし、観想(つまり隠世という意味)のシスター達の会憲をそのまま信徒会のシスター達に持ってくるわけにはいかないので、色々な面でこれをなおしました。名前は「聖ドミニコ信徒会のシスター」と言われていましたが、次第に場所や事業の名を生かして名乗るようになりました。例えば聖ロザリオ修道院というのは、側にロザリオの聖堂があったからでしょうし、三位一体の女子修道会、ここも教会の名などをとりました。他には事業の名を生かした1880年頃の看護婦女子修道会、1908年頃には聖ドミニコの宣教修道女会などもつくられました。芽のように生え出て聖ドミニコ会の木の太い枝となった「聖ドミニコ信徒会」です。(渋谷カトリック教会の発行した「聖ドミニコ信徒会」を参照)
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