甑から京泊へ移ったドミニコ会士はフランシスコ・デ・モラーレス、アロンソ・デ・メーナ、トマース・デ・スマラガ、ファン・ルエダの諸神父および修道士ファン・デ・ラ・アバディーアでした。1606年4月16日のマニラの定期管区会議は前記の諸修道士を「薩摩のサント・ドミンゴ修院」すなわち京泊修院の在住者として任命しています。しかしファン・デ・ラ・アバディーア修士は1606年3月の半ばあるいはその月の下旬には日本を去らねばなりませんでした。
修道士の求めたように、殿は京泊すなわち本土に土地を与えましたが、その好意にもかかわらず、ドミニコ会士は常に薩摩の滞在を不安定であると考えていました。それからメーナ神父は「船が来ない場合に(もし神が慈悲の御手を置き給わないならば)薩摩の事情は困難になるだろうから、私たちが身を寄せるためのできる場所を探すために」(1)と書いていますが、その目的でメーナとスマラガ両神父は京都へ向かいました。しかし途中で大村のキリシタンを助けるために留まらなければなりませんでした。なぜならばその地の領主が信仰を半ば棄てていて、イエズス会士をその修院に閉じ込めていたからです。両神父は大村から平戸へ行き、そこで匿れて仕事をし14日間秘かに秘跡を授けていました。両名は1605年の10月末から11月初めに京都へ向かって出発し、その年の11月下旬に京泊へ戻りました。
ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父は1606年2月24日付で京泊からすでに一通の書簡を書いて、その中で「数多の部落にキリシタンがいます。私たちのいるこの町およびよく私たちの行く町村で日々キリシタンが作られていきます(2)」……「ここはキリスト教の最も盛んな国であり、他の国にはキリシタンはいません……私たちがここに入って来てからは彼らは大きな慰めをもっています。それは私たちが思うままにあらゆる町村へ行って、パードレがいなかったために何年も告解を聴くからであり、またキリシタンになる者もあります(3)」と言っています。
京泊の「ロザリオの聖母」教会は1606年の6月2日に落成した。この教会は新しく造られたというよりは、甑の「ロザリオの聖母」教会の「移転」と言う方が正しいでしょう。「私たちが甑へ行ったとき、そこにはミサを捧げた家のほかは何も残っていませんでした」、「教会はありませんでしたが、キリシタンの家が教会の役目を果たしていました。それは私たちが普段、国中を歩いて、彼らの家で教え告解を聴きあるいはミサを捧げ改宗した異教徒に洗礼を授けていたからです。とくに前記のヤコボ・チュジロー殿(武将・小西美作ディエゴの息子で、有名なキリシタン大名ドン・アグスティン小西行長の孫)の家を教会として使いました。この者は私たちがたびたび行った江口という町に住んでいました」。
京泊地方のキリシタンのうちのある人びとは聖フランシスコ・ザビエル(4)の時代から、キリシタンで、それはイエズス会の古い住院にいたイエズス会士あるいはこの地を通過したイエズス会士(5)によって改宗した人びとであり、またある人びとは他の土地(6)から逃げて来たキリシタンで、最後の人びとはドミニコ会士の(7)手によって改宗した者でした。
1607年6月、ホセ・サン・ハシント・サルバネース、ハシント・オルファネール両神父およびファン・デ・サン・ハシント修士が日本に到着しました。神父二名は京泊に留まり、ファン修士は佐嘉へ行きました。1606年の臨時管区会議は京泊修院長にトーマス・デル・エスピリトゥ・サント・スマラガ神父を任命しています。京泊の修院は管区会議における選挙権を持っていたので、修院長になったスマラガ神父は1608年4月26日の管区選挙会議に出席するため同年のおそらく3月にマニラへ向かいました。京泊にはフランシスコ・モラーレス神父が修院長として残りましたが、彼は薩摩の大名の要請で修院長の資格をもって1608年8月駿府に将軍・徳川家康を訪ねました。
ホセ・デ・サン・ハシント神父とハシント・オルファネール神父は交替で司牧のために全領内を歩きまわっていました。1608年11月16日にホセ・デ・サン・ハシント神父がこれらの旅から帰ったとき、もし棄教しなければ数日後に死刑になるという武士レオン・soxa七右衛門に会いました。神父は彼を励まし、できるだけの準備をしました。翌朝レオンは斬首され(8)、それによって薩摩における最初の殉教者の名称と栄誉を得ました。レオンはフランシスコ・モラーレス神父から洗礼の準備を受けていて、1608年7月22日ハシント・オルファネール神父の手によって受洗しました。この殉教者の遺体は死の二晩後、地中から取り出されて京泊の修院の中庭に埋葬されました。オルファネール神父とホセ・デ・サン・ハシント神父は埋葬の前に遺体を確認しました。
薩摩の大名の父(島津義弘)は七右衛門の死罪を正しいと認め、キリシタンが信仰を棄てまいとして領主の命令に従わないことを非難しました。これによって仏僧は力を得て、神父やキリシタンを領内から追放するように殿を説得し始めました(9)。義弘は、身分の高いキリシタンの友人数名と親しいからと言ってキリシタンに好意を抱かないように、と息子に忠告しました。その通りになって、殿は実際には最良の従者すなわちキリシタンの敵となりました。ホセ・デ・サン・ハシント神父は京泊の修道院の責任者として、加治木へ殿・義弘を訪問し、(目的は達せられませんでしたが)鹿児島の殿に会見しようと努力し、また主要なキリシタンと連絡をとって秘跡を授けることにより、ほとんどすべての人びとに恐ろしい迫害に対する準備をさせることができました。そののち彼らを追放するということが確実に解ったときに、京泊のキリシタンにも準備をさせるために急いで京泊へと戻りました。しかし2月21日に帰着したとき、大多数の者がすでに棄教していたことを知りました(10)。「彼らに偶像を拝ませました…初めは本心からではなくと言いました。この後は、本心からではなくても彼らに他の宗教の信者になることを表明させました。……またある村の長が夢に見たとおり、石の像が新しく建てられて、人びとはみなそれを拝みに行きまし。私はその場所を通って、キリシタンとそれを川へ投げ棄てることに決めました(11)」。
ホセ・デ・ハシント神父がこの困難の最中にあったとき、1609年4月の初旬に管区長代理フランシスコ・モラーレス神父が駿府から戻りました。モラーレス神父は4月下旬にドン・ヤコボ小西チュウジローがその従者アンドゥレース小笠原ソウチュー、ジョアン・コヒョウエ・ヒラその他の人びとともに長崎へ追放されるのを見ることができました。5月初めに追放命令が京泊の諸神父のところに届きました。モラーレス神父の帰着以来、神父たちに対する迫害の度合が激しくなって「食物を与えるために彼らに近づくことも禁止されるに至りました(12)」。襲撃が懸念されたのはこの時でした。そして「一部欠如している報告」が述べているように、「迫害は甚だしく、(迫害者たちは)彼らの手で教会や修院を焼こうとし、修道士は、もし修院が焼かれてもミサを捧げるに困らないように、ミサに必要な品やスペインの葡萄酒を地下に埋めようとしました(13)」。
モラーレス神父はこの状況を見て、オルファネール神父を肥前へ送り、「その時生じた良い機会に」ホセ・デ・サン・ハシント神父を都すなわち京都へ派遣しました。彼自らは一切の物を集め、木造の修院と教会を取り毀し、「異教徒の手に入らないように、一本の棒も残さずこれを3隻の船に積み込み、もう1隻には私が私たちの財産、すなわち前に述べたようにそこに埋葬してあった栄光の殉教者レオンの遺体をもって乗り込みました。またこの舟に、そこの近くの小さな家で私たちが養っていた数人の貧しい人びとも乗りました(14)」。こうして1609年5月の末に、みな長崎へ行く事になったのです。
注
(1) ZUMARRAGA, 10 nov. 1605, fol. 401.
(2) RUEDA, o.c. fol. 385.
(3) RUEDA, o.c, fol. 386.
(4) RODRIGUEZ GIRAM, S.J. (P. Juan), Litterae Annuae 1607, Nagasaki, 25; Relación truncada, 1609,c. 10. Fol. 155.A.P. Santo
Domingo, Manila. MSS.T. 302.
(5) Cfr. SCHUTTE, S. J., o.c. (nota 32), pags. 455-463. 京泊においてイルマン・アルメイダが何名かの異教徒を教え、これに1561年12月9日に授洗した。 Cfr. LAURES, S. J. (Joannes), The Catholic Church in Japan,Ⅵ, pag. 62, Tokyo, 1954.
(6) 1600年に(肥後)八代から、ドン・ディエゴ美作殿(小西作右衛門)が他の身分の高い諸武将および1500人の人びととともに薩摩へ逃れた。そこで殿は江口に土地を与えた。(注・12を参照)。彼らはみなキリシタンだった。パードレたちが行ったとき、宗教上の役に立つように、屋敷の内部に礼拝所があった。(Relación truncada, c.15 fol. 17.)
(7)「多数の者が信仰を受け容れた」。(MORALES, El principio, fol. 87v);「主のために獲った魚は少なくなかった」。(ORFANEL,Historia, c.Ⅱ., fol. 5 Madrid, 1633).
(8) JOSE DE S. JACINTO, O. P., Relación del martirio del bendito León Japón, fols. 331-332v. (A. P. MSS. T. 301).161
(9) MORALES, El principio, fol. 89.
(10) Ib., fol. 328.
(11) JOSE DE S. JACINTO, O.P. Al P. Provincial, Fr. Baltasar Fort, Miyako, 27 de enero de 1610, fol. 329 (A. P. MSS. T. 19).
(12) ORFANEL, Historia, c, Ⅳ., fol. 7.
(13) Relación truncada fol. 154v.
(14) MORALES, El Principio, fol. 89v. -6-.
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