Convento de San José
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日本への ドミニコ会士の 宣教活動の 歴史

「星に輝く使徒」
J・G・バリエス編を元にしたこの本は日本でのドミニコ会の歴史をとてもよく説明しています。

4. 肥前における布教活動(1606-1613年)

 この最後の出来事の3年前すなわち1606年、京泊に落ちついたばかりのドミニコ会士は9月に肥前に入ることができるという大きな喜びを受けました。これは1608年の管区会議で祝われるほどの出来事です。「何年も前から努力して来たにもかかわらず、そのときまでいかなる修道士にも許されなかった」事だからです(1)。

 肥前に布教が開始された偶然の原因は、日本の将軍に対して派遣されたフィリピン総督使節の資格で来たドン・フランシスコ・モレーノ・ドノーソを船長とするマニラのスペイン船の嵐による強制入港でした。この船は1606年7月22日にフィリピンを出帆し、極めて危険な嵐にたびたび遭遇しましたが、船長モレーノ及び乗組員―その中にいた3人のフランシスコ会修道士は、いよいよ最後かと思われる瞬間を乗り越え、奇跡的に助かりました。その危機のとき船長は船のめざしている関東にあるフランシスコ会の教会の保護者・ロザリオの聖母に祈ったのでした(2)。それで海は突然静まって、それから好天の2日ののち長崎の港を見ることができました。しかしそこに数隻の外国船が見えたので、8月27日に長崎の南にある肥前支配下の深堀の小港に入りました。その港の領主・鍋島七左衛門はこの船を歓迎し、佐嘉の大名もまた歓迎の意を申し送って来ました。

 ちょうどそのころドミニコ会士アロンソ・デ・メーナ神父が「ある用件のため(3)」、おそらく施物を求めに長崎へ来ていて、モレーノ船長の船の件を聞いたので、直ちに深堀へ出かけて行きました。彼が到着したとき、船長とその部下は航海中の誓いを果たすために、最も近くの教会すなわちイエズス会士の管轄下にある深堀の教会へと急ぎ向かうところでした。

 モレーノ船長はメーナ神父を深堀の小大名に紹介し、その殿は船長が神父に深い尊敬の態度を示すのを見て、彼自らも神父に敬意を払いました。船長もまた殿の心が傾いているのを見て、彼の領内にドミニコ会のために教会の土地を求めるよい機会であると考えました。そして、殿は直ちにそれを与えました(4)。しかしすでに近くに教会のあることを考慮し、内地(大殿の本領)に教会を建てる許可を大殿から得ることを(深堀の)殿に求めました。殿はそれに努力しようと答え、結局その許可を得ました。

3日後に船長モレーノは佐嘉の大名・鍋島勝茂を訪ねることができて、ダマスコ織や繻子および「日本にはない若干の食物(コンセルバ)(酢漬・砂糖漬のような保存食品) などの立派な贈物」を持っていきました。殿はそのお返しとして「希望する物はなんでも」与えようとされました。しかし彼はただ一ふりの刀剣のみを受けました。それとともに、この船長は関東にいる皇帝のもとへ自分の使命を伝えに行く許可を求めました。そのため、肥前の領主は船長に速い舟一隻を与えました。これは修道士(深堀から佐嘉へ歩いて来たフランシスコ会士3人)および6人のスペイン人を乗せて行くことができる舟でした。この舟で島々の間すなわち日本の(瀬戸)内海、道中200レーグアのほとんど半分を行き、残りは陸上を馬で進みました

 そうしている間に、肥前の大名の甥である深堀の殿・鍋島七左衛門は、船長やスペイン人たちがいかにメーナ神父を尊敬しているか(5)、ということを伯父に報告しました。

 1ヶ月あまりで船長は3、4人の日本人とともに肥前へ戻りました。この日本人は船長を守り、スペイン人の世話をするために付き添った人々です。旅から戻って肥前に入った日、殿は船長を食事に招いて儀礼を尽くし、スペイン人の服について、『これは武士のために非常に身軽でよい』、と言いました。船長は羽飾りとエメラルドのリボンの付いた価格200ペソばかりの黒い帽子をもっていました。殿はこれを手に取って自分の頭に載せ、そこにいた身分の高い数名の日本人の方を向きました。その人々は非常に立派に見えると言いました。手を伸ばしてそれを船長に返すと、船長は再び殿にそれを渡して、『殿さまの頭に載ったものを私がかぶることはできません。どうかこれをお使い下さい』と言いました。

 殿は簡単に帽子を贈られたのに感嘆し、一ふりの太刀と黄金作りの短刀およびその他高価な品々を船長に与えました。殿は立ち上って、(通訳に)『余は贈られた品を喜んで受けとるが、それは船長が余の国の物を何でも遠慮なく余に求めることができるためであり、求められた物は何でも与えよう、と船長に伝えよ』と言いました。船長はこのような良い機会を見て、『私は何も望みませんが、ただ私の連れて来たドミニコ会の神父たちを殿の領内に住まわせていただきたいのです。彼らは真実の(教えを伝える)人々でありますから、彼らに無礼を加えることを許さないで下さい。彼らの悪口を言う者があったとしても、直ちに彼らを悪い者とはせずに、先ず彼らの言うことを聴いていただきたい』と言いました。

 殿はすでに、アロンソ神父の噂を聞いていたので…直ちに貴人の威厳をもって言いました『彼(アロンソ神父)および船にいる神父に伝えよ。教会を造るために余の領内のいかなる町においても土地を与えるであろう』そして実際にアロンソ・デ・メーナ神父に会うまでは殿の心は落ち着きませんでしたが、彼に会って殿は非常に喜びました。それはあらゆることに必要な日本語を神父がよく知っていたからです。

 殿は神父に言いました。『スペイン人たちの船長が、貴僧を余の領内に住まわせよ、と求めた。よって領内のいかなる町においても教会を作り得るこの許可書を受領せよ。ただ、今のところは余の首都には土地を与えぬことを許されよ。なぜならばそれはわれらの諸宗旨に反するからである……年が改まってから、それを与えるであろう(6)』。その後すぐに、首都・佐嘉に教会を建てる許可が与えられた訳ですから、直ちに仏僧の学校(前注5を参照)の協議会が開かれたに違いありません。

 メーナ神父はその許可によって浜町(「それは4000人の住民の町」)に土地を選び、船長モレーノおよび佐嘉の殿の援助で、そこにロザリオの聖母に捧げる教会とサント・ドミンゴ修道院と称する修院を造り、1607年の聖霊降臨の大祝日に落成式を行いました。京泊にいたファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父が修院長に任命され、少しのち、1607年6月に日本に到着したファン・デ・サン・ハシント修士がその教会勤務を命ぜられました。その時からメーナ神父を含めてドミニコ会士は3名になりました。1608年、「大きさが中間の」鹿島市に別の教会が建立され、また同時に「全領内で最も主要な大都市・佐嘉」に教会が作られました。鹿島教会は聖ビセンテに、首都・佐嘉の教会は聖パウロに捧げられました。

 これらの教会およびそれぞれの修院は模範を示すため特に質素に造られ、神父たちが現世の物事に執着しないことはよく人々に知られ、それは人びとが彼らを捨身(シャシン)のパードレすなわちわが身を軽んずるパードレと称ぶほどであり、甑の初めに似ている狭さの中に生活していました。しかしその質素さと貧しさが人々の心を捉え、この領内においてもまた「私たちは大勢のキリシタンを作った」とルエダ神父は書いています。メーナ神父は浜町発1608年3月10日付書簡の中でアドゥアルテ神父宛に次のように述べている。「毎日多数のキリシタンが作られていますから、大きな成果を挙げ始めています」。鹿島の教会が未だできあがっていない時の書簡には、「これを書いているとき、私たちは建築の木材を作っていますが、大勢の人々が洗礼を受けることを希望しているので、工事を急いでいます」と述べています。

 オルファネール神父は「肥前国においては現在(1609年)キリスト教の諸事は隆盛におもむき、多数の異教徒がわれらの信仰に改宗しキリシタンは平和を享受しています。それで修道士は自由に歩くことができ、前に述べた薩摩と同じように、全領内で秘跡を授け人々を教え導いています。ときどき他の国々へ出かけて行って、少なからぬ成果を挙げています」と述べています。続いて、修道士が「この領内にスペイン人の船を導いて来るとは思わないでいただきたい」と言ったこと、殿が彼らに「すでにそのつもりである」と答えたこと、メーナ神父が城中において仏僧の面前で迎えられたこと、およびその他のことを述べています。佐嘉におけるドミニコ会士の活動については、アドゥアルテ神父「サント・ロザリオの歴史」(7)の中にこれを読むことができます。これは(時には全くそのまま)「一部欠如している報告」(8)から取っています。この当時の珍しい模範はルエダ神父が彼の「日本におけるドミニコ会士の戒律遵守について簡単な報告」(9)の中に述べています。

 こうして佐嘉の布教は1609年から1612年までは順風に帆を上げたように進んでいきました。しかし佐嘉の大名・鍋島勝茂が1613年の夏の末、将軍を訪問しに行ったとき、突然彼は父親・直茂に書状を送って、領内から神父たちを追放せよと命じて来ました。直茂は将軍から出たその命令を1613年9月23日に深い悲しみをもって、平和が回復したときには再び迎えるという約束と共に神父たちに伝えました。

 修道士は柄崎(現在の武雄市)に土地を殿からもらったばかりで、「教会を造ろうとしていたところであって(10)」また「すでに建築を始めるために材木を集めていたが、私たちは追放されたので」「改宗の大きく期待された所に(11)」「教会を造る材料や土地を棄てて行かなければなりませんでした(12)」とオルファネール神父は述べています。

 その影響は大変大きいものでしたが、神父たちは現実をよく見て将来のキリシタン迫害を予想し、自分たちの準備をするふりをして、できる限りのことを領内のキリシタンに残して行くために心身を捧げて働きました。「その領内にいるすべてのキリシタンに徳の修練を教え、とくに信仰を棄てないためにはいかなる苦しみをも耐え忍ばなければならないと励まし(13)」、「教会の物品を整備すると言う口実で手間取っている2週間の間、毎日キリシタンが浜町の教会に集まり、その大多数の者は告解をすることができました(14)」。「またそれとともに神父たちは最も信心の深い人々を長とし、男女それぞれの幾つかの組を作りました。それは何軒かの家に祈祷所を残しておいて、ときどき集まって祈り、あるいは信心の本を読んで説教の替わりとするためでした。また同時に断食や苦業の規則を彼らに課し平和と愛の精神を教え、最後に、いかなる方法でもよいから棄教する前に神のために役立つように死ぬべきことを教えました。キリシタンはみな喜んでこれらの教えを受け容れました。

 1613年10月8日、ロザリオの祝日に神父たちは浜町で乗船して長崎に向かいました。「このとき殿は若干の者を追放したけれども、(それ以上の)迫害はしませんでした。そのため人々は自由にお別れに来ることができましたが、それは深い悲しみと涙を伴うものでした(15)」。「人々の方から見れば父親と別れ狼の間に残される悲しみ、私たちとしては汗して育てた愛する子供たちと別れるかのような、はなはだ深い悲しみだったので、この父子の別離の光景はひとつの見ものでありました(16)」。このとき、男も女も子供もキリシタンはひとりも家に残っていませんでした。ことごとく泣きながら出て、遠くまで神父たちについて行き、大勢の者が長崎まで行くために舟に乗りました。これは神がこの領内において彼らに与え給うた大きな御恵みのひとつであり、とくにキリシタンばかりでなく異教徒や彼らの司祭である仏僧までが修道士達に愛情を抱いてくれたことは特別な神の御恵みでした。

 佐嘉から追放された神父たちはアロンソ・デ・メーナ、ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダおよびハシント・オルファネールでした。(ファン・デ・サン・ハシント修士は1611年にマニラから呼ばれてすでに日本を去っていました。オルファネール神父は1609年5月、薩摩を追放された時に佐嘉へ移動、同じく数ヶ月間佐嘉にいたことのあるトマース・デ・スマラガ神父は1609年7月に京都へ派遣されました)。

 浜町から長崎へ行く途中でメーナ、オルファネール両神父は有馬に所属する古賀に立ち寄って、棄教していたドン・ダミアン・ハマダ・チオブを教えに立ち戻らせ、それから長崎まで旅を続けました。しかしルエダ神父は日本人の服を着て(日本の着物を着用した最初の外国人と言われます)一伝道士とともにしばらく留まり、それから大村領へ行きました。そこは何年も前にイエズス会の神父が追放されたので、何年間も告解しないし神父に逢っていない町村が数多くありました。ルエダ神父は大勢の人々の告解を聴き洗礼を授けました。それを終えて、彼は長崎へ、メーナ、オルファネール両神父は11月10日にこの市に到着しました。


(1) その原因は佐嘉の殿(龍造寺(1553-1590)とその継承者・鍋島)が近隣のキリシタン大名(大友義鎮・有馬義忠・有馬晴信等)の敵として、キリシタンに対して常に抱いていた憎しみである。とくに鍋島直茂(1536-1619年)はイエズス会に対して不満を抱いていた。その原因は直茂が毛利勝信とともに長崎における秀吉の奉行であるのに、巡察使アレサンドゥロ・ヴァリニャーノ神父が1591年夏、印度副王使節の紹介者として彼を招かなかったからである。(Cfr. ALVAREZ-TALADRIZ, adiciones, Adic.2 nota5.)また1587年7月3日に秀吉から鍋島に与えられた諫早領および神代の城を有馬晴信がイエズス会士の援助によって取り返したことにある。
(2) Viage I promesas de un Navio de Manila a Japón, Ano de 1606 (Titulo posterior y anónima la relación), gols. Archivo Provincial de Santo Domingo de Manila, MSS. T. 301.この報告の主たる目的は、ロザリオの聖母によってなされた奇跡、およびその力によってドミニコ会士が佐嘉領に入ることのできたことを述べることである。
(3) ORFANEL, Historia, c. Ⅱ, fol. 3.
(4) ORFANEL, Historia, c.Ⅱ, fol.3.
(5) Viage I promesas, fol, 158, 5v.マニラのドミニコ会古文書館にある「一部欠如している報告」(第156葉以降)は次のように述べている。 深堀の殿は佐嘉における(援助を)申し出た時に、メーナ神父を自ら伴おうとした。しかしそのとき神父が長崎にいたので、戻ったら佐嘉へ来るようにと書き物を残しておいた。メーナ神父は直ちに出発した。しかし鍋島七左衛門は、この数日なぜか解らないが殿の機嫌を損じたので何ら相談することができなかった、と神父に伝えた。しかし、その夜七左衛門はメーナ神父のことを殿に話す機会を得た。殿は翌日(訪問には贈物は不要であると言って)神父を呼び神父は殿に会いに行った。殿は会見を喜び、領内に教会を造ることを許したい、しかしその前にガコと呼ばれる有名な仏僧と相談しなければならない、と言った。(ガコは学校である。 C.R. Boxer and J. S. Cummins, The Dominican mission in Japan(1602-1622) and Lope de Vega, ARCHIVUM FR PRAEDIC.(ⅩⅩⅩⅢ) pag. 10 nota 7, Romae, 1963. によれば有名な足利学校の校長であったので、こう呼ばれていた)。この偉大な仏僧が賛成したので、殿はパードレ・メーナに領内のいかなる場所に教会を建ててもよいという許可を与えた。
(6) Viage I promesas, fols. 6, 6v, 7.
(7) Lib. Ⅱ., c. LⅩⅣ, pags. 459-496.
(8) C. 12, fol. 160-165.
(9) Fol. 80, 80v.
(10) ORFANEL, Historia, c. Ⅱ, fol. 3.
(11) ORFANEL, Relación de 1619, fol. 112v RUEDA, Breve relación de la obs., fol 71v.
(12) Ib.
(13) RUEDA, Breve relación de la Observancia, fol. 73.
(14) ORFANEL, Historia, c. ⅩⅠ, fol. 22.
(15) ORFANEL, Historia, c. ⅩⅠ, fol. 22.
(16) RUEDA, Breve relación de la Observancia, fol. 73.

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