使徒的生活はエクワール福音的勧告に基いた生活ですが、使徒的生活は、切り離せない観想と活動と云う二つの要素より成り立っています。
教会の伝統によりますと、このすぐれた生活を全うしたのは、イエズスの選ばれた12人の弟子達です。そう云う訳で教会は、当初時代より、12人の使徒がすごした生活と、最もすぐれた模範として示し、信徒、特に修道者達が、感想的・活動的な生活に習らいつつ、イエズスのあとについていくように招いています。
観想的・活動的な生活は、ちょうどドミニコが、創立した会のメンバーのために選んだ生活です。この生活を理解するため、切り離せない二つの要素を一寸分離して、考えてみましょう。
先ず、ドミニコ会員のわたし達が悟るベきことは、永遠の生命がこの地上においてすでに始まったと云うことです。イエズスは、次の言葉によって、これを確信しました。「愛によって、わたしに留りなさい。そうすればわたしはあなた達に留まる。人がわたしに留まり、わたしもこの人に留まるならばその人は多くの実を結ぶ」(ヨ、15)ところで、イエズスに留まることは、観想生活を示すことに他なりません。
神を観想させる動機は愛そのもの自体です。神を愛すれば愛する程、神とその内的生活を知り、神いわば父と子と霊であられる神に留まることをわたし達は体験します。又、神を愛すれば愛する程、神に留まることと同時に人々(隣人)を迎え、愛することが出来ます。
神に留まること、それは観想的な生活であり、人々を迎えること、それは活動的なと生活です。神への愛と、人々への愛が二つではなく、一つの愛であると同じように、観想的な生活と活動的な生活は二つではなく、一つの生活です。聖書は次のようにこれらをまとめます。「神を愛する者は、兄弟をも愛さなりればなりません。これが、わたし達が神から受けた(一つの)おきてです。(1,a,4.21)
今言ったことによって、理解出来るのは、観想によって、神の内的な生活に親しんでゆけばゆくほど、み旨とそのみ旨から出るみ言葉をより深く悟り、それをよりふさわしく人々に宣べ伝えることが出来るのです。要するに、宣教の活動が観想の泉から湧き出る川のようです。ドミニコ会のメンバーのわたし達にとって、これを悟るのは非常に大切なことです。本会の活動は、その特有の目的、いわば救いのメッセージを宣教することですが、この宣教がどうでもいいと云うことではなく、み言葉を観想したことに基づいているのみです。「わたしが闇で話したことを明かるみでいいなさい」とイエズスは弟子にいわれました。これは、神と親しく対話したこと(=観想)を隠さず、むしろ公けに宣言(=活動)することを意味します。これは神と親しい交わりを宣べ伝えるということですが、ここで誤解して欲しくない点は、観想する時があり、活動する時があるというのではありません。観想する時、活動する時の区別ではなく、充満の溢れであるという問題です。
聖トマス・アクィナスが言った「観想し、かつ観想した結果を他人に宣べ伝える」これはドミニコ会の感想生活をふさわしく一言でまとめあげた表現です。泉と溢れ出て流れる川が一つであるように観想と活動は一つです。結局、神のみ言葉を宣教するのは、観想の充満より溢れ出る結果であり、ドミニコ会において観想生活は活動生活に指示を向けられているのではなく、又観想の目的は活動を含むことでもありません。例えば観想は説教の準備のための研究反省ではなく、観想した結果、人々に宣べ伝える気持にならなくてはいけません。つまり神と親しい交わりである観想を通して聞いたことを話さずにはいられません。他の修道会で例えば善業、病院、学校などを第一の目的とした修道会を活動的というのは当然であり、観想生活は第二目的となります。ドミニコ会はそうではありません。本会においては、両方とも、一つの泉として(観想)、もう一つは湧き出る水として(活動)生かさねばなりません。やはり観想し、観想した結果を宣教するのです。ドミニコ会の生活が観想的であり又、活動的であると言えるのですが、もっと適確な表現をするならば、ドミニコ会の生活は観想的・活動的なものです。トマス・アクィナス自身も単なる活動生活や単なる観想生活よりも、その両生活を生かし、使徒職を通して、その目的とする観想を実り豊かなものにする使徒的生活としています。
これに似た言葉をサクソニアのヨルダヌスはドミニコについて次のように述べました。「霊父ドミニコは神と共にあるいは神について語りました」。神について語ったのは神と共に語ることができたからであり、「観想し、観想の結果を他人に伝える」とトマス・アクィナスが書いてのは霊父ドミニコの姿を想い出していたのでしょう。ここで使われている「結果」という言葉を「実」と言い換えた方がふさわしいのではないかと思います。「実」は、その木と一つであるように、活動と観想も一つであります。
ドミニコ会の活動は人々を救う神との親しい交わりと密接な絆を結びつけるのです。これができるのは、次のような条件によります。即ち、キリストの御顔に輝く神の光を、み言葉を伝えるわたし達の顔にも絶えるこのなく持ちつづけることです。観想することは、神に対して深く純粋な愛に満ちた眼差しを表わすことです。深い眼差しとは長く絶えまなく留まるやすらかさであり、純粋な眼差しとは、決して偽ることのない素直な自分の心を神に捧げることです。そして愛に満ちた眼差しとは、愛である神のみ旨にすべてを委ねることであります。
このように観想ということを眼差しと言ったわけですが、これは神を心の眼で見るというような意味にしても良いと思います。これは天国での報いにあづかることに他なりません。ですから眼差しとは、この場念頭で知ることではなく、心で悟ること、つまり、「知識の光」を持って救いのご計画を直観的に受け入れることです。大聖グレゴリオは、「み言葉を宣べ伝える宣教師は自分の心の炎が燃え上がるように観想生活を絶えず行い、これによってあたかも、神の光に照らされているかのように、彼らの 心が輝き、炎に変化されて行く」と語っています。実に観想の火によらずして、単に活動にのみ導かれるとすれば、心の熱は遅かれ早かれさめてしまうでしょう。
この言葉のように、わたし達ドミニコ会員は、観想生活と活動生活は決して切り離して考えることが出来ません。これを結びつけている絆は、「神のみ言葉」そのものです。観想によって神のみ言葉を聞き、活動によって神のみ言葉を宣べ伝えることにより、常にその中心は神です。それ故、再度言いますが、ドミニコ会の生活において観想と活動は一つです。聖トマスは「ドミニコ会的生活は使徒的なものであり、会員の行う生活は活動や、単なる観想生活ではなく、両生活を統一すると共に、使徒職を通して目的とする観想を実り豊かなものとする使徒的生活を一層完全な生活とみなしている」と言っています。」
ドミニコ会の目的は、観想しその実りを、まわりの人々にも分かちあうことです。では、わたし達は何を人々と分ち合うのでしょうか。それは、特に信仰、希望、愛の三つの徳であります。信仰の徳によって神に知性と意思を捧げ神から啓示された事柄を受け入れて自分自身を神に委ねるのです。希望の徳によって、永遠の生命とそれを得るために必要な恵みを神の約束によって受け入れることを待ち望むのです。愛の徳によって、神を何ものにもまして愛し、同じ神への愛を以てイエズスがわたし達を愛したように隣人を愛するのです。
わたし達の観想の対象はここにもあります。啓示された事柄とは唯一でありながら、三位一体の神、いわば天地の創造主である御父、人間の救い主である御子、心の保護者、教会の助け主である聖霊であります。啓示の中で最も大切なのは、御子を世に遣わされ、御子のいけにえによって、わたし達は教われ神の子となりましたということです。ドミニコは、ただこれだけを観想しました。
ドミニコ会的観想の中心は神のみ言葉たるキリストである…と言えるのです。勿論のこと、キリストは父と聖霊を直接結ばれている絆ですから、御子について観想するなら御父と御子と聖霊がいつも浮かんできます。しかしながら御父と聖霊を結びつけている絆は、キリストですから、従ってわたし達の観想の中心はイエズス・キリストであると言えましょう。「イエズス・キリスト 即ち十字架につけられたイエズスの他は何も知らなくてもよい」(コ、2.2)とパウロが言っていますが、この言葉はドミニコ会の霊性の特徴をうまく表現しています。キリストこそ、父のみ許に行く道であり、その道がなければ救われません。トマス・アクィナスは、「神学大全」の中で、その数百ページをイエズスについて述べていますが、これは受肉とあがないの神秘の解釈(イエズスの障害、救いのいけにえ、復活、昇天、教会の設立、秘跡、終末再臨など)を語っています。
本会の霊牲を生かす最もふさわしい方法は、創立者ドミニコにならうことです。目撃者のヨルダヌスは、ドミニコについて次のようにのべています。「神に選ばれたドミニコは、心の中で徳への準備をすでに整え、その清い生き方故に霊感に輝く暁の明星のごとく友人達の中で輝きを放ち、彼らの目には日々己れを高めるように見え、徳から徳へと進んでゆく時、彼の名声はオスマの司教ディエゴの耳に届いた。初めから、その輝く星は非常に謙虚で、人々の中にあっては聖人のように光を放っていました。そして聖人としての光はだれにも劣らず火にたかれる香のように、人々に力を与える生命の香りとなるべき人でありました。ドミニコは戸を閉めて父に祈りを捧げることが度々ありました。神との聖なる会話の間、心の叫びは声になり、遠くからでも明瞭に聞きとれました。晩課において涙を、朝課において喜びに溢れていました。日中は隣人の救いに捧げ、夜を神に捧げました。(「星に輝く使徒」J.E バリエスO.P 編より)
意味深い引用です。これによって本会の会員達が各自の観想を果すようにだれに習ったら良いか、十分理解できると思います。こんなに素晴らしい模範がわたし達に与えられましたことは、何とも言えない恵みでありましょう。さて、ドミニコ会員の観想生活と、その他の観想会(いわば隠世修道会)に属している会員の観懇生活を、少々比較してみましょう。これはどちらが良いかは別として、ただドミニコ会における観想生活の特徴をもっと理解するためです。
観想会の会員は単なる観想者であります故、活動の業を行う義務はありません。彼らにとって活動、いわばみ言葉の宣教は例外的であり、従順の誓願に基づく臨時的な状態です。しかし、ドミニコ会はそうではありません。というのは、ドミニコ会員は単なる観想者ではなく活動することを基礎としております。会員は隣人からの要求がなければ修道院にいて観想生活を行うのですが、もしみ言葉を伝える要求があれば、従順の誓願によりこれに答える義務が生じるのです。ドミニコ会の観想と観想会の観想との遣いはこの点です。
ところで、この隣人からの呼かけですが、活動についてのコントロールが必要であり、何によってなされるかと言えば、やはり観想そのものです。又、一方観想は活動にコントロールされているのです。これも大切なことで少し考えてみることにしましょう。先ず霊的な呼びかけ(即ち隣人にみ言葉を宣教する要求)をコントロールする力となるのは観想そのものであり、この呼びかけは観想から湧き出る神の活動であり、その活動は観想そのものによっていつもコントロールされているのです。会員は観想の光によって、自分達の活動的生活を確かめなくてはなりません。そうしなければ行動的傾向に走る危険が生じてしまうでしょう。
又、観想だけでなく、この霊的な呼びかけを長上や養成の担当者、あるいは修道院のメンバー達のすすめや指導によってコントロールしなくてはなりません。しかし、何よりも真先に活動をコントロールするのは自分自身です。会憲によりますと、「先ず最初に本人は、自分の指導について第一の責任者でなければならない」(151番)と記されており、非常に賢明な判断です。
その上ドミニコは、会員達が豊かな観想ができるように、プレモントレ会やシトー会から数多くの霊的なものを借り、ふさわしい雰囲気を定めて下さいました。例えば、修道規律の遵守、共同生活、禁域、沈黙や断食などについてですが、これによってドミニコは、本会における観想生活がいかに大切であるかを十分に示して下さいました。わたし達の生活において、このような観想的な次元がなければ、ドミニコ的生活は出来ません。観想がなければ、修道生活の一般的な目的(個人の聖化)だけでなく、本会に与えられた固有の目的(み言葉の宣教)をも、全うすることが出来ません。
それ故、み言葉の宣教は、観想生活に基づくものであり、観懇生活とは神のみ言葉に親しく聞くということです。神のみ旨は「天の父が完全でありなさい」ということであり、この完全さとはつまり、一人一人の聖別(聖化)です。聖別とは、…神のものになるという意味です。即ち、聖なるものとして一般のものから区別すること、聖なるものという「聖」は、尊い清いという意味であり、わたし達の心が、神に近づけば近づく程、神に清められるのです。それは丁度、観想的生活の意味と一致します。観想の泉から豊かに汲んだ人だけが、神のみ言葉により、飢え乾く心を満たし、それを隣人に宣べ伝えることが出来るのです。なるほど泉とそこから湧き出る川とが切り離せないように、本会の生活は、観想とそこから流れ出る活動とは、切り離せない二つの要素より成り立っているのです。
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