Convento de San José
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ドミニコ会と共同生活

「イエズスは人里離れた所に退いて祈られた。」これは前に宣べたように隠遁生活の土台となっている言葉であり、初代教会のある信者はこの言葉に従って世間を断ち、山地や荒野の洞窟で、隠遁生活をはじめました。

しかし、そうしているうちに彼らは大事なことに気がつきました。それは、特別の霊感(カリスマ)、召し出しがない限り人間は一人で孤独な生活をすることができないということです。トマス・アクィナスが言われた通りです。「孤独な生活は、完全なものにしか適さない。人間は伝統と規律によって支えられ、他人から規制されるために、社会生活(共同生活)を必要とする。」それ故、この本の第一部に書いたように、四世紀から「共同体を通して、修道生活を・・・」というスローガンがでてくるのです。

つまり神とより親しく生きる一般的な道が共同生活であるという意味を示しています。自然の次元を考えてみますと、人間そのものは単独ではとても非力です。自分の力だけで生まれ、成長し、人格をみがくことはできません。霊的な次元も全く同じです。第二バチカン公会議で発布された「教会憲法」は次のように述べております。

「神は人々を個別的に、全く相互の連絡もなしに、聖とされ、救われることではなく、彼らを真理に基づいて、神を認め、忠実に神に仕える一つの民として確立することをよしとされた。」(九条)

それは一般信者が「神の民」と呼ばれ、隣人愛を通してその「民」の精神を深く全うしなくてはなりません。同じように修道者達は、兄弟愛を通して共同生活を送るのです。このことを悟ったベネディクトは、新しく創立した会のため、会則をつくり、共同生活が本会の目的を果たすために基本的な手段として定めました。又一方、ベネディクトは福音的生活を忠実に送るために、修道会を学院、長上を師、修道者を弟子のように考え、組織づくりをしました。

その後生まれ出た托鉢のフランシスコ会、カルメル会、ドミニコ会なども共同生活を会の目的を果たすために基本的な手段としておりますが、各々制度は違っています。例えばドミニコ会は学院、師、弟子と云うことではなく、家族、父、兄弟と云うように組織をつくりました。ドミニコ会において「父」とは長上のことではなく、天にまします御父を示しているのです。長上とは、どちらかといいますと兄弟の中の「兄」あるいは「姉」であり、他の会員は「弟」あるいは「妹」であるようです。

この家族制度は本会の霊性において、非常に深い影響を与えております。本会の正式な名前は、説教者兄弟会ではありませんか。これによって共同生活が本会においてどれ程必要であるか理解出来ると思います。本会の会憲は次のように述べております。「要するに、ドミニコは孤独な生活、隠遁生活を尊重しながら、会の目的、いわば世界の人々にみ言葉を宣教すると云う目的をふさわしく果せるために共同生活を選びました。初めから、ドミニコが会員に要求したのは、従順と共同生活である。」(十三条)

これはおそらく「聖アウグスチヌスの戒律」の影響と思われます。この戒律は「我々が一緒に集まった第一の理由は、一致共同して住まい、神のうちに一つの心、一つの精神を持つためである。」(二条)とあります。

ドミニコ会は本質的に共同体精神に基づいており、これを私達会員は形だけではなく理解しなくてはなりません。「各修道院が兄弟的な手段であるがために、一人一人のすべてが相互に同じ一つの体の部分の如く考え、受け入れねばならない。勿論、各々の個性と役目の差異においては、皆平等である。」(ドミニコ会の会憲四条)

本会において共同生活が必要であるのは、その目的を果たすためであり、共同生活は先ず、会の一般的な目的である観想生活を学ばせる手段です。例えば日々の祈り、善業、苦業、勉学などによって会員は各々の個性をみがくと共に、イエズスが現わされた同じ愛を全うするよう努力しましょう。愛すれば愛する程愛そのものである神に近づき、それは丁度、観想生活の目標です。兄弟愛に基づく共同体的生活を通して神と一致するのです。兄弟愛がなければ真の共同生活は不可能であるとシエナのカタリナは語っています。又、「主なる神は仰せになった。私があなたに対して現わす全く同じ愛をもって、愛するように私は願います。しかし、私の願う全く同じ愛をもって、あなたは私の愛に十分に報いてくれることができようか。私は、兄弟姉妹の真中にあなたを置き、無条件で愛するということを、兄弟姉妹にしてあげたことは、つまりわたしにしてくれたことであります。」(「対話」より)

兄弟愛のある共同体には常に神がおられます。結局、このような共同体こそ、神に出合う真の場です。こればかりではありません。兄弟愛に基づく共同体こそ、み言葉の宣教という固有の目的を全うするのです。共同生活を重んじる会員達は、すぐにこの事実を悟ることができましょう。愛することは、他人を心に受け入れると共に、他人を迎え、助けの手を積極的にのばすことであり、これこそイエズスが要求されたことです。

反面、一緒に暮している兄弟姉妹に対してこれを実行し、表わすことは、たやすいことではありません。何故かといいますと、一緒に長く過ごしている人達は、気をつけないとその美点よりも欠点に拘ってしまい、家庭でも修道院においても同じですが、兄弟的な共同体をつくるのに大きな妨げとなってしまう恐れがあるからです。自分自身を捨てて、会員が気が合うか合わないかは別として、「兄弟愛」を通して共同体生活を全うすることは絶対的な条件です。「神を愛するからと言って、兄弟を愛さない人は決して誠実とはいえません。目に見える兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできません。」(ヨ、4.20)これは要するに、兄弟への愛が神への愛を計るのです。

そして、心からわき出るこの神秘的なエネルギーである愛そのものは、自ら幅広く溢れるのです。というのは会員達は兄弟愛によって、修道院の範囲を越えて「闇に座っている人々」の方へ行って、その心を照らさなくてはなりません。これは真の兄弟愛に基づく共同体の業に違いありません。「信者の群れは、心と魂を一つにしていた。だれも、自分の持ち物を自分のものと言わず、すべてのものを共有していた。・・・彼らには、一人も貧しい人がいなかった。」(使徒行録4.32)これは共同生活に関して、理想的状態を描いてはおりますが、事実はおそらく違っていたでしょう。ヤコブ(2.15)やパウロ(2テモテオ3.10)、ヨハネ(3.2.15)などの手紙を読んでみますと、現代のわたし達と同じように、当時の信者をはじめ、二世紀頃の修道院では、使徒行録が語っている理想的な共同生活を果たすことが仲々難かしかったようです。彼らは、現代のわたし達と同じように、信・望・愛という霊的な武器をもって戦いながら生活したことでしょう。ですから共同体が完全であったか否かということは問題ではなく、真先に兄弟愛であり、これを果たそうとした努力は立派なものです。共同体の使命は、そのメンバー達が日々の苦しみや悩みのために失望していた他のメンバーを助け、励まし、導くことです。これは今昔を問わず共同生活には非常に大切な態度です。

この初代教会の信者達の素晴らしい態度をわたし達も見習いましょう。共同生活は次の四本の柱、分ち合い、兄弟一致、グループに属する自覚、目的を団体的に果たす意志という四本の柱が土台となっております。これらを大切にし、修道者達がつたない偏見を捨て、差別の壁をのり越えながら、自由な且つ平等の心と精神をもって、一緒に選んだ一本の道を真直に正しく歩んでゆくように努めるならば、使徒行録が述べた理想的な共同体に必ず近づくでしょう。

最後に、共同生活と会員の連帯性について教会の教父聖バシレオズ(330~379)が、書き記したのは意味深い言葉です。「キリストの神秘的な体である教会を形づけるように召されたわたし達各々は、その体のメンバーである。各自のメンバーが体に密接に結ばれているのは、聖霊の力によることに他ならない。共同生活なしに、喜んでいる者と共に喜び、苦しんでいる者と共に苦しむことはできない。個人では神的な」賜のすべてを受けるに値するものは、だれもいない。しかし、共同生活において各自に与えられているカリスマは共同体全体のものとなる。他人から離れていて、生活する者は、おそらく、カリスマはあっても自分一人のふところに隠しているのと同じことなので、他人には何の益をももたらさないのです。反対に、共同生活において、各人のメンバーは各々のカリスマは勿論ですが、他のメンバーのカリスマからも豊かな実りを得るのであります。」仮にわたし達が、ドミニコに向って、共同生活について話を求めるならば、おそらく彼は、バシリオスが書いたテキストを真先に出されることでしょう。

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