ドミニコ会に課せられたカリスマは、み言葉の宣教であり、これは会全体に与えられた賜ですから精一杯果たすようにしなければなりません。教会において、観想会及び活動会が認められており両方とも大切です。
第二バチカン公会議の「修道生活の刷新と適応に関する教令」の中で修道会のもう一つの種類について語られておりますが、残念なことにこれについてちょっと曖昧な表現でもって説明しています。教令は、観想的かつ活動的修道を次の言葉をもって説明します。「会則あるいは制度によって使徒的生活を聖務日課の歌隊共唱と穏世修道規則の道とを密接にあらわしている修道会(第9番)しかしこの説明のみでは通じないと思われます。つまり、会則制度によって、聖務日課、即ち祈りの面で、それと使徒活動を密接にあらわしている修道会という意味でしょうが、簡単に言うと「活動的生活と観想生活」を密接にあらわしている修道会ということになりますが、しかしそれもあまり適切な表現ではありません。例えばドミニコ会の活動生活は観想の充満から溢れ出ており、この使徒的事業を通じて霊魂の救いのために協力することを本会の目的としています。
さて、本会において活動生活を示す表現はいろいろあります。例えば救いのメッセージ、或いは使徒的活動、言葉の宣教、ことばの宣言などの表現で、これはすべて同じ事を言い表しています。しかし、言葉を統一するために「みことばの宣教」という標語をここで使うことにしましょう。
1.共同体的宣教
ドミニコ会において「み言葉の宣教」は、共同体的な責任を伴っています。会員各自の業や活動は異なっても、会全体として同じ任務をもっており、使命を果たすように務めなくてはなりません。異なった業や活動とは、例えば哲学、文学、科学等に関する仕事、又、聖書学、神学、神秘学、典礼や芸術において、あるいは病院、幼稚園、寮、学校などにあいて、これらの活動を通してみ言葉の宣教をすることで、これによって人々は神を知り、神に近づくことができましょう。人々が神を知り、神を愛し、神と共に生きるように昼も夜も神のことを語り歩いたドミニコとその兄弟姉妹に課せられた使命がこれです。
本会は前に言ったように第一会、第二会、第三会の三つのグループに分かれており、第一会は修道士及び司祭のグループ、第二会は観想の修道女によって、第三会は活動の修道女と信徒会によってそれぞれ構成されています。第一会と第三会は世間の中で活動しますが、第二会はみ言葉の宣教というカリスマをどのように生かすのか観想と祈りのうちに仕え、第一会、第三会のメンバと異って、直接布教はしません。あるいは第一会又は第三会に属していても、修道院内で役割を持つ長上、義成担当者、修練者なども布教しません。彼らはどのようにしてドミニコ会の力リスマを果たすのでしょう。彼らは観想、祈り、苦業、労働、功徳によって他のメンバーを支え、このようなことを通して、み言葉を宣教する会員の活動に本質的に属するわけで、各々与えられた仕事によって本会の召し出しを全うするのです。
「わたしにとって福音を宣べ伝えることは良い、それは誇りではなくそうしなければならないことである。しかし、もしわたしが福音を宣べ伝えないなら災わいである。」このようにどんなにその業の形が異っても、ドミニコ会の各会員にとっても同様でなければなりません。
又、一方、この責任を負うのがつらくて、昔の預言者エレミアも同じように悩みました。エレミアは神の呼びかけを聞いた時、その重大な任務を断わろうと思ったのですが、しかし、神に憑かれた彼は、やはり最後まで頑張りました。エレミア書にも次のような個所があります。「神のみ言葉はわたしにとって毎日、あざけりとからかいのものでした。だからわたしは、もう神の言葉を忘れ、神の言葉を話すまいと思いました。だが、わたしの心には燃え上がる火、即ち神との愛があり、わたしの心の中に溶け込んでいき、わたしはそれを消そうと試みたが消せなかった。」(エ、20.9)
ドミニコの心も、まさにこれと同じでした。神に憑かれたエレミアと同じように本会の会員達もその使命に燃えなくてはなりません。「私が福音を宣べ伝えないなら災いな者である。」わたし達がドミニコ会に入会したのは先ずこのためではないでしょうか。わたし達は、何故「ドミニコ会に入会したのでしょうか。単なるあいまいに思えても、もし数年経ってドミニコ会の誓願をたてたのは決して偶然なことではなく、神の救いの計画であることを必ず確信できた筈です。預言者エレミアも同じように、神の呼びかける声に耳を傾けこれに従ったではありませんか。これは決して簡単なことではなく、エレミアと同じようにわたし達も逃げたいと何度も思ったことがあった筈です。「心にある火を消そうと思っていた・・・」ができなかったのです。ここに霊のみ業があり、それに伴うわたし達の努力もありましょう。
しかしこればかりではありません。わたし達が修道院に入った時の理由と、誓願をたてるまで頑張った理由を比較しますとおそらく異なっているほど進んで来たでしょう。なるほど、その理由は、だんだんと深くなっていったことと思います。と言うのは、み言葉を伝えるという神の呼びかけにこたえる理由ですが、始めはあいまいであっても、時がたつにつれて、はっきりとして心を燃すのです。その偉大な炎が消えないように、祈って下さい。その呼びかけに預言者を始め、イエズスの弟子や諸聖人、特に聖ドミニコが従ったようにわたし達もどんな困難にぶつかっても、ふさわしくこたえるように努めましょう。
ドミニコは、昼も夜も聖堂や道端で人々に語り、兄弟達にも同じように努めるように命じ励ましました。み言葉を宣教するという重い責任を会全体の責任とし、互いに励まし合い努力すればする程、成果を納めることでしょう。これが非常に重い責任であることを感じた聖カタリナは自宅の隠れたところで隠世生活を送ろうと思いました。ところが幻の中で主は彼女にあらわれて言われたのです。「娘よ、他人の救いに対する炎をあなたの中に燃えたたせよ。今過ごしている生活はもの足りない。人から離れず、魂の救いのために使徒的活動を身につけなさい。」と
活動よりも隠世の方が優れた生活であると深く思っていたカタリナは、主の言葉を聞いて悩みました。主は彼女に次のように慰めて言われました。「心配することはない。あなたに与える恵みは使徒的生活を通じて他人を支えるものである。私はあなたが私から離れるのを願うつもりはない。むしろ隣人への愛によって、あなたがわたしの心とより密接に結ばれることを望んでいる。つまり、わたしが望んでいるのはあなたがこの二つの掟、戒めを果すことであります。片足ではなく、二本の足で歩めるように、又、両羽の翼で天国まで飛び上がれるようになりなさい・・・。」非常に美しい言葉であり、観想生活と活動生活のどちらが完全であるということではなく、大切なのは「わたしにとって神のみ旨が何であるのかを探し、それを忠実に果すこと」これだけなのです。
本会の共同体的な宣教は、次に載げたシエナのカタリナの言葉の中にあらわされています。「わたしは、人間となったみ言葉である永遠の御子が神の御口から生まれ出たことを見、そののち栄光に囲まれた霊父ドミニコが同じく神のみ旨から出るのを見ました。そして神は、”わたしは二人の子を世に与えた。一人は実子イエズスであり、もう一人は養子ドミニコである。わたしが産んだ実子は、わたしの旨のままに語り、真理を証明してくれた。同様にわたしの養子であるドミニコは、信者や異端者達にもわたしの言葉を公に語った。これは自分自身のみでなく、その後継者である兄弟を通して、永遠に語り続けるでしょう。実子が養子を送ったように、養子は兄弟姉妹達を遣わしました”」この言葉によっても理解されるように、み言葉を宣教することは、兄弟的責任であり、本会に与えられたカリスマです。従って本会の創立の時から今日まで、会員の兄弟姉妹達は様々な形で、み言葉の宣教という大切な使命を果たしてきました。例えば大学で教えたり、学校で養成の面倒を見たりすることもあれば、宣教地でまだ信じていない人にみ言葉を告げたり、小教区で信者達を牧したり、又、マスメディア(ラジオ・テレビ・出版物など)を通じて救いのメッセージの光を輝かすことが、すべて本会に与えられた共同体的なカリスマです。
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