Convento de San José
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ドミニコ会の典礼

ドミニコは、創立した会の目的を定めた時、その手段をも規定しました。「使徒的宣教の協力者であるわたし達は、聖ドミニコの創立した形式に従って、使徒達が過ごした生活に習い、心を一つにして共同生活を行い、福音的勧告の誓願に忠実にとどまり、典礼の共同祭儀、特にミサ聖祭と聖務日課の賛歌、祈りと苦業に熱情を傾け、勉学に励み、修道規律の遵守にあくことなく励むことである。」と、会憲(1のⅣ)に記されています。

これらの手段が互に固く結ばれ、ほどよく調和し、豊かにすることによって本会固有の生活が構成されるのです。それこそ使徒的生活であり、その宣教は、観想の豊かさから出発されねばならないと記しています。「ミサ聖祭と聖務日課の賛美、祈り」をまとめてみますと、これは「典礼」という一つの言葉になります。典礼はドミニコ会の目的を果たすための根本的手段であり、ドミニコ会の霊性に深く刻み込まれています。

サクソニアのヨルダヌスによりますと、ドミニコは夜もしばしば寝ずに祈りのうちに過ごした人でした。「日中は隣人に捧げ、夜は神に捧げました。」ドミニコは、このように使徒的生活を送り、その子らにも同じ道を歩むよう、いつも励ましているのです。ドミニコが祈る人でしたので、その子らも祈る人でなくてはなりません。つまり会員達は、その生活が典礼という大事な要素に基づいていなくてはなりません。

こう言いますと聖書の次の言葉が思いおこされます。ペトロは「わたし共使徒達は、自ら祈りと宣教に従事すべきである。」(使徒行録6.3)祈りと宣教とは、ドミニコがあらわした心の態度であり、創立した会の二本の柱であるとも言えます。祈ることは、観想生活の中で、様々の形をもって行われる典礼を示す言葉です。

本会における典礼のいろづけ(やり方)は、会員の生活に深い影響を及ぼしているのですが、どちらが優れているかということではなく、他の修道会と異っております。例えば、ベネディクト会は、生活の三つの要素、言わば日々の一般的生活、典礼祭儀、労働に別れており、なかでも典礼祭儀は観想生活の中心であると言ってよいでしょう。しかし、ドミニコ会はここまで言い切れません。ベネディクト会は一般的目的も固有目的も同じで、それは隠世かつ観想生活ですが、ドミニコ会は両者の目的が違います。本会の生活の中心は典礼ではなく、固有の目的いわば、み言葉の宣教に他なりません。それ故、本会の典礼は固有の目的を全うさせるように、他の手段、(例えば三つの誓願、勉学、修道規律の遵守)に、調和よくあわせねばなりません。この点で、ベネディクト会と大分異なっていると思います。

ところで、本会の典礼がドミニコ会的であると言える程特別なものなのでしょうか。「ドミニコ会的典礼」という表現にわたし達は正しい意味を与えるよう考えねばなりません。例えばドミニコとその後継者は、本会典礼をすべての内容を考慮した上でつくりましたから、本会の典礼がドミニコ会的典礼と呼ばれているわけではありません。もし、ドミニコ会的典礼があるとするならば、他の意味であり、ロマーノのホムベルトによりますと、ドミニコとその後継者は、典礼を創始する考えはなかったようです。

ドミニコは当時の他の修道会で行われていた祈り、聖務などを選定、編集したり、時には修正したりしていました。ドミニコ会的典礼は本質的には、会の目的に適用されたローマ式典礼であるといえましょう。各々の家族はその生活の仕方、雰囲気などによって他とそれぞれ異なるのと同じように、本会の生活の仕方や雰囲気は他の会と比較して違う筈だということでありましょう。この意味でのみドミニコ会的典礼という表現を用いるべきです。

つまり先に言ったように、他から借りて自分のものに次第に身についた状態を本会の典礼というのです。修道生活に関する伝統を非常に尊敬していたドミニコは、会のためにわざわざ独創的な典礼をつくろうとは一度も考えたことはありませんでした。本会の典礼は、プレモントレ会、シトー会、ベネディクト会からテキストを受け入れましたが、その唱え方はずい分違っています。観想会での荘厳な長い時間をかける典礼に対して、本会の目的に合わせた固有のやり方の特徴は単純で地味、簡潔ですばやいことです。そのような雰囲気の中で、み教えの研究と宣教に従事する修道会にきわめて当然な神学的色彩を有する祈りや典礼文を唱えているのです。

結局、本会はみ言葉を宣べるという目的を果すように考えながら、神のみ名を典礼を通して讃美するようにその務めを本会は担っているのです。例えばベネディクト会と比較すると、詩的な親しみ易い典礼に対して、ドミニコ会は神学的色彩をもち、少し固いのではないかと思います。本会の標語「真理」に対して合致するわけで、わたし達は会としては典礼の専門家ではありませんが、典礼の神学において教えるのです。ドミニコ会は典礼に関する雑誌をよく発行しています。

会の典礼がどんなに地味で簡潔ですばやいものであっても、教会が定めた重要な点を熱心な心で実行しなければなりません。典礼において重要な点とは、その中心であるミサ聖祭であり、聖務日課、特に朝課と晩課です。その他会憲は念祷の時間や聖体訪問やロザリオの祈りについても語っています。わたし達は深い信心をもって神の救いの祭儀により、霊父ドミニコの模範に倣って熱心に聖務日課を唱え、又修道院にいる時も旅行中も夜となく昼となく祈りにたずさわらなければなりません。

祈りとみ言葉にたずさわる使徒的生活をドミニコとその兄弟姉妹は、その後継としていただいた使命を考え、他の修道会と少々比較してみましょう。先ずイエズス会ですが、聖イグナチオは、会員が会の固有の目的をもち、自由に完全に全うするように、聖務日課を個人的に唱えるように要求し、心の養いのために心霊修行を定めました。ドミニコ会では、会の目的を果すために聖務日課を共同的に唱え、心の養いとして典礼祭儀を一緒に行うよう定めました。どちらが正しいか良いかは別として両方とも教会の宝です。

ドミニコにとって典礼とは、キリストと同化させるために真に教会によって定められた最も観想的な面、最も効果的な方法として、それを生かすようにしました。

次に、プレモントレ会、聖母のしもべ会、三位一体会などでは、この世の生活の空しさ、いやしさ、罪や欠点の償いの業に自らの霊性の根本を定めました。彼らは十字架の一個を示し、ドミニコ会は復活の面を表します。といいますとドミニコ会においては、欠点や罪は現実であることは認めますが、これよりも真先に神を賛美すべきことを最も大切にして、自分の霊性を典礼祭儀に基づくように定めました。

くり返しますが、どちらが良いか、それは決めることはできません。救いの神秘において両方共必要です。即ち救いの神秘において十字架の面と復活の面があり、苦しみと喜びの面を切り離すことはできません。これこそイエズスが全うされた同じ救いの神秘です。ある会はこちらの面を、又、ある会はもう一方の面を生かすことで、両方合せたならばすばらしい神への賛美を捧げられるということです。しかし、だからと言って、他の会が人間の空しさ、罪などを考えるから、ドミニコ会は考えなくて良いということではなくアクセントの違いだけです。

本会における典礼のアクセントについて、初代のドミニコ会会員、ベルナルド師は次のように述べています。「典礼は先ず第一に神への賛美であり、栄光を帰するというわたし達の第一の義務をはたさせると共に、修道者を完徳へと導き、イエズス・キリストに同化させる最も単純な最も確実な道である。」み言葉の宣教によって神に近づき、救いのみ業に参加するように努めているわたし達は、毎日の典礼によってそれを実行し、この救いのみ業を毎日必ず新たにするのです。

本会の典礼はあらゆるものを一つの中心的な観想に関連させる、即ち知的な判断や心の愛情を知的な生活および論理的な生活のすべての要素を修道者の前に生きるキリストという観念(修道者がそれによってものを眺め理解し判断し愛するところの観念)のまわりに集合させる習慣を与えるのであり、典礼の働きはここにあるというわけです。これらのことを理解し、これらのことを通して生きる兄弟姉妹は、神を賛美し、自ら聖化され、又、他人も聖化していくのです。

「本会を治める長上に担せられた任務は、会員達が確実な使徒となることである。」と、シエナのカタリナが語っていますが、「確実な使徒」とは、その活動が観想の充満より溢れ出ることでありましょう。「良い木は良い実を結び、良い木は悪い実をつけない。」と聖書にあります。(マ.7.17)実とは会員の活動であり、木とは活動の実を結ぶ観想です。又、実は木から離されると熟しないし、すっぱくて食べられません。同様に典礼、あるいは観想から離れた活動は無駄な業であり空しいものです。

ドミニコは本会の修院から修院へまわり、兄弟姉妹が祈る人となるようにいつも励まし強めたそうです。霊父についてドミニコ会士、聖ヴィンセンシオ・ノェレリオ(1355~1419)は、沈黙はドミニコ会の「基」であるといわれましたが、沈黙は祈りや念祷や観想を支え、又、典礼祭儀を実行するように心をふさわしく準備するものです。

沈黙のうちに度々、人里離れた所に行かれたイエズスが沈黙のうちに祈りを以ておん父と親しみ、そのみ旨に従われたその沈黙から、み言葉を宣言する力を頂きました。同じように沈黙のうちに生活している兄弟姉妹は典礼上の祭儀によって、地上においてイエズス・キリストが行われたその礼拝を継続しているというわけで、ドミニコは宣教するのにどんなに忙しくても祈りと典礼の業を決して省くことはありませんでした。長途の旅に晩課の鐘がきこえますと、神を賛美しながら、修院に帰る修道者達と声を合わせて祈りました。ドミニコ会修道院のみが、他の修道会の修院に行っても同じようにされました。1221年、ドミニコが亡くなる一週間位前、非常に疲れ果てて熱が高い時、ボローニアの院長は、夜の二時頃行われていた夜課に出ないようにと進めました。「どうか休んで下さい。」と何度も院長は言われましたが、ドミニコは断り、兄弟姉妹達と一緒に語り合い、夜課が始まる時間まで祈り、皆と共に夜課を唱えました。

わたし達は霊父ドミニコがどれ程祈る人であり、祈りと典礼祭儀を好む人であったかがわかり、又、どれ程典礼が修道生活を統一させる大切な手段であったかがわかりましょう。ドミニコが生かされたことをわたし達は後継者として生かして行きたいと思います。

ところで典礼は観想の面を生かすものですが、他方では活動の面を妨げるのではないでしょうか。例えばみ言葉に飢え乾いている人々がその糧を求めているのに、会員達は毎日数時間にわたって典礼上の任務を果たしているのですが、これは無駄ではないでしょうか。いいえ、決してそうではありません。ドミニコは、オスマの参事会員として観想的な面を生かし、毎日祈りの為の長い時間を過ごしましたが、この時間を無駄なものと彼は一度も考えたことはなかったのです。むしろ、彼は数年間の観想生活を通して、神との親しい時間を長く暮し、ドミニコはこれによって祈る人となったのです。

ドミニコにとってみ言葉の宣教と云う活動の河は、典礼、祈り、観想の泉から出るものであり決して逆ではありません。神への愛と隣人への愛は切り離すことが出来ません。同じ愛の泉ですが、しかし隣人への愛は神への愛の泉からほとばしるものであり、逆ではありません。つまり順序として真先に神への愛がなくてはなりません。

わたし達の宣教に救う力を与えるのはわたし達の努力よりも、真先に神の恵みです。どんなにすばらしい説教をしても、もしわたし達のうちに愛の火が燃えていなければ、他人に愛をもって照らすこともできないし、心をあたためることもできません。同様に神のみ前に立ち上がってそのみ名を典礼祭儀により賛美したのちこそ、人々に向かい、「見たこと、聞いたこと」を、宣べ伝えられるのです。これが正しい順序であり、トマス・アクィナスが言ったように、「観想し、かつ観想したことを他人に宣べ伝える」ということです。

典礼を通して心で見たこと、聞いたことについてもう少し言いますと、わたし達が聖書の研究や勉学によって得た神に関する知識を、単なる抽象的な知識としてではなく生きる知識、活動的知識、愛に満ちた知識、自己奉献、自己犠牲をなす知識とならない限り、自分達の召し出しに徹していることにはならないのです。ドミニコ会は、おそらく学者や博士がいますので、インテリの多い会であると言われます。本会はいくらかこの面があると認めながら、他方では学者や博士達をつくるために創立された会では決してなく、み言葉を宣べ伝える会です。その為に知識が必要とされるのです。何故なら愛は神の霊の賜であり、人間が自己の力のみでなしえることではありません。ですから主のあわれみを祈り求めましょう。そうすれば与えられますし、求めることは祈りの一つの形であり、求めることは祈ることと同じです。

1481年の総会議の中に「典礼はすべてに先んじるべきである・・・」とありますが、真に事実その通りであり、本会のメンバーが典礼から離れては、自らの目的を果たすことができないという証です。

最後に念祷、黙想、種々の信心について一言つけ加えてみることにいたしましょう。ドミニコ会が教会の名によって、固有の目的(み言葉の宣教)を果たすために、教会の正式の祈りである典礼を一つの要素として定め、毎日この典礼(特にミサ聖祭と聖務日課)をもって神を賛美するのです。しかし、ドミニコ会の祈りはこのような正式の典礼だけではありません。本会の会憲は、念祷、「毎日一定時に少くとも三十分の念祷」をするようにすすめております。

トマス・アクィナスやシエナのカタリナなど、ドミニコ会の聖人達も同じようにしました。例えばトマス・アクィナスは絶えず本を読み、書き、毎日歌隊に出席しましたが、それだけでは満足せず、他の兄弟よりも先に念祷したそうですし、又、ヴィンセンシオ・フェレリオはみ言葉の研究の間、時々ひざまづいて熱心に祈りを捧げたり、聖堂に行き神の御力を願い求めました。

わたし達も聖人達にならい、時には仕事の手を休め、イエズスと一致するように努めましょう。そうすることによって、祈り、念祷、黙想などにどれほど力があるか自然に悟ることができましょう。

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