| 1.わたしたち日本の教会の使命を考える -ロザリオの聖母管区創立記念にあたり- |
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| 2.フィリピンに管区を創立する計画 |
| 3.新管区創設の実現に向かって |
| 4.フィリピンにおける活動の始まり |
| 5.フィリピンにおける発展 |
| 6.中国大陸に福音の光を |
| 7.インドシナ半島における宣教 |
| 8.朝鮮半島への宣教の試み |
| 9.ローマ修道院 |
| 10.アメリカ大陸での活動 |
4日後の25日はスペインの保護者、使徒聖ヤコボの祝日で、この日、15名はマニラに入った。待ち兼ねていたドミニコ会士、マニラ司教サラサールは心から彼らを歓迎して、近づいていた会祖聖ドミニコの祝日(8月4日)を一緒に祝った。その日、司教座聖堂で捧げられた荘厳なミサの後、午後は神学に関する討論集会が開かれた。それはドミニコ会特有の行事であるが、たとえ学問のない未開の原住民に対する宣教にも、学問とその絶え間ない研究が大切であることを人々に知ってもらうためでもあった。
その翌日、厳格な修道院生活が出来るようにフランシスコ会の修道院に居を移した。そこの修道院長はのちに日本二十六聖人殉教者の長となる聖ペドロ・バウチスタ神父で、15名のドミニコ会士はこの聖なる人をあたかも自分たちの管区長代理としてその指導に従っていた。
早速、彼らは活動を始めた。会祖聖ドミニコがされたように、総長代理フアン・デ・カストロ神父は、マニラ司教や総督の許可のもとに、兄弟たちを各地に分散することを決定した。宣教師は誰も行ったことがないパタアン地方に4名、パンガシナン地方に6名が派遣された。残りの5名はマニラに修道院を建て、そこでもっとも厳格な修道院生活を実践し、かつフィリピンにおけるドミニコ会が行う諸活動の中心となるためであった。
サラサール司教や友人たちの援助により、マニラ市を流れるパシッグ川の岸辺で、浸水しやすい土地が手に入った。貧しい彼らはそれで満足した。そこに竹とニッパと呼ばれる草葉で作られた「サント・ドミンゴ修道院」が完成し、1588年1月1日、最初のドミニコ会修道院が祝別された。貧しい建物であったが、そこで行われる学徳すぐれた修道者たちの生活、説教台から、あるいは告白室の中でなされる信仰の真理を述べる説教はマニラ市民の間に知られていった。
メキシコに残っていたクリソストモ神父やフアン・コボ神父が4名の修道者と共にマニラに到着した。そこで総長代理フアン・デ・カストロ神父は法律的に新管区設立を決定する第1回の管区総会をサント・ドミンゴ修道院で開くことにした。1588年6月10日、会則にしたがって、これまでの総長代理であったフアン・デ・カストロ神父を管区長に選出した。また新管区の正式な名称は「フィリピン諸島にある至聖ロザリオ管区」と決定、「ロザリオの聖母」を管区の第1保護者、「マグダラの聖マリア」を第2保護者にいただくことにした。ここに本管区はフィリピン、インドシナ半島、台湾、日本、中国大陸という広大な宣教地で主イエズスの福音を告げ知らせることを公式に宣言したのである。やがて1592年、ベニスで開かれたドミニコ会総会は新管区の創設と初代管区長カストロ神父の選出を承認したのである。
これまで、小さな1粒の「からし種」がスペインからフィリピンに移植されたいきさつを見てきたが、これからは「地の果て」である極東アジアにある国々で、枝葉を広げ成長していく様子を、特に日本における管区の歴史について述べてみたい。
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