Convento de San José
Sei Yosefu Shudoin
Kinuyama 5-1621-1, Matsuyama-shi, Ehime-Ken 791-8025, Japan
Tel. 81 89 926 1171
E-mail.sanjose_japan@yahoo.com

聖ドミニコ修道会ロザリオの聖母管区四百年史(1587-1987)

中国大陸に福音の光を

中国宣教は既に14世紀より、フランシスコ会のフアン・デ・モンテコルピーノ神父によって始まっていた。ドミニコ会としては、1556年にポルトガル人ガスパル・デ・サンタ・クルス神父が広東で宣教を始めたが、まもなく放棄してポルトガルに帰ってしまった。中国宣教は至聖ロザリオ管区にとって創立の目的でもあったのである。

至聖ロザリオ管区の創立者たちがメキシコのアカプルコ港を出発する時、フィリピンに向かう15名とは別に、マカオへ向かった3名の司祭アントニオ・アルセデアーノ、アロンソ・デルガード、バルトロメオ・ロペスがいたことは既に述べた。彼らは1587年4月3日、サン・マルチン号に乗って出港した。途中は平穏な航海に恵まれたが、中国大陸の沿岸に近づいた時、台風に襲われて難破した。しかし親切な中国人に救われて、同年9月1日、無事にマカオにたどり着いた。マカオに来た目的はこの地に修道院を建て、すぐれた歴史と文化を持つ中国に福音を伝える根拠地を作るためであった。

マカオは16世紀以来ポルトガルが領有している中国大陸の小さな半島で、東方航路によって東南アジアにやってきたポルトガル人が中国で産出する生糸や絹織物の貿易の根拠地としていた。また東洋におけるイエズス会宣教の中心地であって、日本に始めてカトリック信仰を伝えた聖フランシスコ・ザビエルや多くのイエズス会宣教師たちはマカオからやってきたのである。イエズス会による中国宣教はすでに開始されており、1583年に有名なマテオ・リッチ神父は首都北京において活躍するのである。

マカオにやってきた3人のドミニコ会士を待ち受けていたのは多くの嫌がらせで、これはポルトガル人がスペイン人に対して持っていた対抗意識から来るものであった。それにもかかわらず、「ロザリオの聖母」に捧げた修道院を建てることができた。しかし数ヶ月後、マカオを統治するゴアの副王の命令によって、3人は修道院を放棄してマカオを立ち去り、スペインに帰国しなければならなかった。

中国宣教の計画を実現させるために、管区長カストロ神父はベナビーデス神父を伴って中国・福建省の沿岸に潜入するが、すぐに逮捕され、スパイ容疑でアモイに連行されて裁判にかけられた。親切な中国人や神の摂理に助けられて、2人はマニラに帰ってくることができたが、この体験から今の時点では中国宣教は無理だと判断したのである。

ところがドミニコ会士で、マカオ司教フアン・ピントがマニラに来た時、管区の修道者たちの厳格な生活態度と使徒職への熱意を見て、自分の教区で、中国人に宣教するために何人かを連れていくことを望んだ。司教はその計画をパリーで開かれていたドミニコ会総会に申し入れたので、1612年の管区会議は広東語に通じていた2人の神父をマカオに派遣したが、やはりポルトガル人の反スペイン感情とイエズス会士たちの反対で、失敗に終わってしまった。

1630年、台湾に駐屯するスペイン軍司令官フアン・デ・アルカラーソはマニラからの指令で福建省長官に使節を派遣することになり、淡水にいたアンヘル・コッチとトマス・セラの両神父が使節として福建省へ出発した。使節を乗せた中国人船長は積み込んだ贈物に目がくらんで、海賊に早変わりして贈物を奪い、セラ神父を殺してしまった。しかも船底に穴をあけて船を沈めようとしたが、コッチ神父は摂理的に難をのがれた。

フーチャオに住む長官はコッチ神父が使節であることを認めたが、委任状をなくしているので面会しようとはせずに、台湾へ帰るように命じた。しかし、何とかしてこの地に止まりたいと願う神父は、ルカと呼ばれる信者の医者と1人の日本人の助けをかりで、中国人に変装してホーガンに行った。そこでルカから中国語や独特な風習を学び、宣教を始めた。ホーガンにはイエズス会宣教師から受洗した信者のグループがいたが、神父がいなかったので、喜んでコッチ神父を迎えた。また、その村の有力者の家族を信仰へ導いてからは多くの人が洗礼を受けた。やがて近くの場所に小さな教会堂を建てることになった。これこそ至聖ロザリオ管区が長い間待ち望んできた中国宣教の端緒となったできごとなのである。

1633年7月、管区長の指示でフアン・パウチスタ・デ・モラーレス神父がフランシスコ会土アントニオ・デ・サンタマリア神父と一緒にホーガンに来た。同年11月18日に中国におけるドミニコ会宣教の創始者であるコッチ神父が死んだ。彼の後継者、モラーレス神父は卓越した神学者であったので、宣教事業を進めるにあたって中国人の独特な宗教上の習慣とカトリック信仰との調和について、つまりキリスト教の土着化の問題について鋭い観察を始めた。後に、ローマ教皇庁を巻き込んでイエズス会神学者との間に有名な神学論争を引き起こす人である。

1635年の末、フランシスコ・ディアス神父が1人のフランシスコ会士とこの宣教地に来て、宣教の実りはさらに大きくなったコしかし、1人の狂信的な若者がホーガンで多くの村人が崇拝している偶像を破壊したことがきっかけとなって、この地方に迫害が始まり、やがて福建省全域に広がり宣教師たちは追放された。1642年、迫害の嵐がやわらいで来た頃、ディアス神父は後に中国最初の殉教者となる福者フランシスコ・フェルナンデス・カピッリャス神父を伴ってホーガンへ帰ってきた。カピッリャス神父は1人の信者の婦人に秘跡を授けて帰る途中、迫害者の手に落ち、非道な拷問の後、斬首された。1648年1月15日のことであった。

迫害が沈静化した1655年、新たに5名の宣教師がホーガンに向かうが、そのうちの1人、リッチ神父はアモイに残り、ここに新しい宣教地を開いた。1659年にはモラーレス神父が3名の会員と共にアモイに来て、この地における宣教が発展していった。

その後、1812年までに度重なる迫害で至聖ロザリオ管区は多くの殉教者をだした。それらの中、福者に列せられた殉教者はサンス教区長をはじめセラノ、ロヨ、アルコベル、ディアスの諸神父である。

1833年から1900年にかけて、激動する世界情勢の影響を受けて中国宣教に大きな変化が生じた。それはポルトガルとスペイン両国が覇権を失い、新たに英、米、独、仏、そして日本が東洋諸国で覇権を競いあい、圧倒的な軍事力でもって中国を植民地化しようとしていたからである。彼らが中国に求めるのは政治的、経済的、軍事的利益であって、これまでのポルトガルとスペイン両国がキリストの福音宣教を第1目標としていたのとは全く異なって来た。しかし、この情勢変化から中国にあるカトリック教会は清王朝によるキリスト教迫害がなくなるという間接的な恩恵を受けた。

また、前述の教皇アレクサンデル六世の勅書によって、これまでの中国宣教はポルトガルの独占的権利であったが、教皇グレゴリオ十六世はその権利を廃止し、新しい中国教会の組織を編成した。今まで北京、南京、マカオの3教区しかなかったが、13の司教区が設立された。そして至聖ロザリオ管区が多くの殉教者の血によって証して来た福建省も司教区になった。

イギリスと清王朝との間に生じたアヘン戦争と、それに続くヨーロッパ列強の中国侵略は中国国民にとって受難の歴史であったが、キリストの福音宣教にとっては不利益な多くの障害が取り除かれ、宣教事業が順調に発展していった。至聖ロザリオ管区も17世紀半ばにリッチ神父が開いたアモイでの宣教を再開したり、新たな宣教地や中国人司祭養成のための神学校の設立を実現できた。福建教区はアモイ、ホーガン、フーチャオの3教区に分割され、それぞれに発展していった。

日支事変が始まり、それに続く太平洋戦争の終了までは、至聖ロザリオ管区の宣教地は日本軍の占領下にあって宣教事業は支障を受けながらも、継続された。しかし中国共産革命によって共産政権が樹立すると、キリスト教は禁止、カトリック、プロテスタントを問わずすべての外国人宣教師は国外に追放され、教会財産は全部没収された。また共産政権が作ったカトリック愛国教会に加盟しない中国人司教、司祭、信徒は迫害され、多くの者が殺害された。至聖ロザリオ管区の宣教師たちも同じ運命をたどった。今なお、中国教会は受難の中にある。

ちなみに、1950年から1953年にかけて、至聖ロザリオ管区の宣教師たちが中国から追放され、残された3つの宣教地区は次の通りである。

「フーチャオ大司教区」……1674年、宣教開始。1883年、代牧教区創立。1946年、大司教区に昇格し、初代大司教にドミニコ会士テオドロ・ラボラドール・フライレが就任。1951年、国外追放され、1980年5月6日、台湾にて死去。主な施設は次のものがあった。サン・ビセンテ修道院(1932年創立)、サント・ドミンゴ学校(1915年創立)、フッキェン地区神学校(1935年創立)。

「アモイ司教区」……1655年、宣教開始。1883年、代牧教区創立。1946年司教区に昇格し、初代司教にドミニコ会士フアン・バウチスタ・ベラスコ・ディアスが就任。1953年9月、国外追放され、1985年10月26日、フィリピンにて死去。主な施設として、サント・トマス学校(1924年創立)がある。

「フーニン司教区」……1633年、宣教開始。1923年、代牧教区創立。1946年、司教区に昇格し、中国人教区司祭が司教に就任。主な施設は2つの修道院がある。

台湾における宣教

1596年、フェリペ二世はフィリピン総督に台湾征服の指示を与えていたが、1624年まで実行されなかった。しかし、その年強力なオランダ艦隊がペスカドール諸島を占領したので、中国福建省とマニラの間の貿易に支障をきたした。そこでフィリピン総督フェルナンド・デ・シルパは遠征隊を編成し、また至聖ロザリオ管区長バルトロメオ・マルティーネス神父に同行する司祭たちの派遣を要請した。これに対して管区長自身が数名の神父を伴なって参加し、新しい宣教地を開くことにした。

1626年2月8日、遠征隊はフィリピンを出発し、台湾の沿岸にそって北上し、現在の基隆の沖にある小さな島に上陸してサン・サルパドル要塞を置いた。原住民は初めて見るヨーロッパ人と大砲の音に驚いて、家を捨てて山にかくれてしまった。この状況こそまさしく宣教師たちの働きの場で、スペイン人と平和裡に生活できることを原住民に愛徳の奉仕によって説得した。また「諸聖人」に捧げた修道院と教会を建て、フランシスコ・モラ神父が管区長代理に任命された。

遠征隊は中国とフィリピンとの貿易をより安全にするために、1628年に台湾海峡に面した淡水を占領し、サント・ドミンゴ要塞を設けた。宣教師たちはここに「ロザリオの聖母教会」を建てて、活動を始めた。宣教師たちの努力によって原住民は少しずつ未開性を捨て、キリスト教を受け入れ始めたので、ハシント・エスキベル神父は彼らを集めて、近くに2つのキリスト信者村を組織した。

無論、すべてが順調にいったのではない。単身で、未開の原住民の中に入って宣教しようとして殺害されたバエス神父やムロ神父の犠牲があったが、台湾における宣教が大砲や剣による威しで行われなかったのはマルティネス管区長の方針によるものであった。

ところが、1641年より台湾近海に出没していたオランダ艦隊は、翌年、スペイン遠征隊の諸要塞を占領した。宣教師も全員捕虜となり、修道院も教会の建物も、そしてすべての財産も奪われてしまった。捕虜となった6名の宣教師はバタビアに連行され、1643年、マニラに帰ってくることができた。こうして台湾における宣教は一時中断するのである。

1858年、ローマ教皇庁布教聖省の指示で、至聖ロザリオ管区は台湾における宣教の再開を決定した。2人の宣教師がマニラを出発し、アモイを経由して、翌年5月18日、台湾南部の高雄に上陸した。彼らは住民から征服に来たのだと訴えられ、官憲の手に捕えられたが、あるヨーロッパ人の商人の仲介で、自由にされた。しかし、彼らのうちボフルル神父は獄中の難儀で病気になりアモイに帰ったが、もう1人のサインズ神父は元気で台南に向かい、宣教の根拠地として土地を手に入れようとしたが反対され、さらに暗殺されそうになったので、アモイに避難しなければならなかった。

危険がなくなり、サインズ神父は台湾に戻り、チェンキンの町から1キロメートルほど離れたところに土地を求め、貧しい草ぶきの伝道場を建てて数名に洗礼を授けることができたのである。これが管区にとって台湾で、再開した宣教の最初の実りであった。やがて、信者たちは家族ぐるみで伝道場のまわりに住み着いたので、マニラのサント・ドミンゴ教会に真似た最初の教会堂を建設することになった。

さて、台湾と福建省にある宣教地が遠く離れており、連絡が不便であるのを考慮して、管区会議は1860年8月7日に台湾を独立した宣教地とし、フーチャオで働いていたマリアーノ・アントン神父を管区長代理に任命して派遣した。しかし、病気がちな彼は多くの困難に負けてフーチャオに帰ってしまった。そこでサインズ神父がその職務につき、チェンキンは他の神父に委ねてバンキンムチェンに行き、原住民に宣教を開始した。

彼らは中国人よりも素直に宣教師を信頼し、カトリック信仰を受け入れたので、大きな信徒共同体が生まれた。それを妬んだ周囲の異教徒たちは多くの嫌がらせをし、遂には命をとると脅迫したり、家に放火したりしたが、新信者は素晴らしい信仰を示したので、カトリック教についてよい評判が広まった。そこでサインズ神父は伝道者学校を設立し、子供たちに読み書きや初歩のキリスト教義を、大人たちにはより高度な教理問答を教え、神父の右腕となって人々に宣教する伝道士を養成し始めた。1873年にはチェンキンにも伝道者学校が建てられた。このように多くの伝道士を養成する方法が台湾での宣教に著しい成果をもたらしたのである。

神父たちの教も増えて、宣教の拠点は台湾南部から中部へと発展していった。しかしサインズ神父が心から望んでいたのは北部における宣教であった。なぜなら、そこは17世紀に至聖ロザリオ管区が既に福音の種を蒔いていた所であり、当時、台北が島の首都と定められて多くの人口が集まってきており、さらにプロテスタントがはやくも60の教会を建てて宣教していたからである。しかし人員の不足から実現できなかった。

1886年、管区長代理ヘルセ神父は管区が愛しているかの地に再び福音の光をかかげるためにアランス神父を派遣した。彼は1人の伝道士と2人の信者を台北に派遣し、様子を調べさせたところ、台北ではなく、その西にあるチウニという村に拠点をおくように報告をうけたので、その村の借家に「聖ヨゼフ」に捧げた小聖堂を設けた。ところが、プロテスタント側からカトリック宣教に対する妨害が激しく、また1889年、アランス神父の所に派遣されてきた2人の若い神父たちが病気になって去って行くなど多くの困難を抱えての宣教であった。神父が17世紀に宣教された基隆地方を伝道旅行した時、かつて信仰を受け入れた原住民が後からやってきた支配者によって奥深い山地に追いやられているのを知って彼らを訪ねていき、後になって大きな信者共同体が育つ土台を据えた。

日清戦争の結果、1895年の下関条約により台湾は日本の主権のものとなった。日本軍による占領が開始され、ゲリラとの間に行われた戦闘で教会の建物は破壊、略奪され、何人かの伝道士や信者が殺害されたり、懸賞金が出されて捕縛されたりした。多くの信者は家を失い、路頭にさまよった。特に島の中部地方がひどく、宣教師たちは外交ルートを通じて日本政府に賠償を請求したが、あまり成果はなかった。

20世紀になって宣教活動に大きな障害がいくつも生じた。破壊、略奪された教会や施設の復興に要する資金不足、中国人のキリスト教への無関心、プロテスタント側の妨害、続いた台風や地震の災害、そして日本政府が義務化した日本語の習得など、台湾のドミニコ会宣教は絶望的といってよい状態であった。そのような中でも宣教への努力が続けられ、1903年に2名のドミニコ会第三会修道女がやってきて孤児院を開設した。

宣教事業の発展に伴い、ローマ聖座は、1913年6月19日、これまでアモイ教区の管轄下にあった台湾宣教地区を独立教区とし、クレメンテ・フェルナンデス神父を教区長に任命した。1917年、新教区長は長らく夢みてきたカトリック学校を台北市に設置した。日本政府の認可を受けた近代的設備をもつ高等女学校で、「福者イメルダ」を保護者とし、「静修女学校」と呼ばれた。その運営をマニラのドミニコ会第三会修道女たちに任せた。すぐに500人をこえる生徒の応募があって成功をおさめたが、日本政府の命令でカトリック学校でありながら修道女が生徒たちにカトリック教義を教授することが禁止されたのは残念であった。

日本政府による台湾各地の開発に伴い、多くの宣教地は近代的に整備され、多くの人口をもつ市街地となった。首都となった台北、高雄、台中、台南、淡水、基隆、樺山、嘉義などで、各地の信者の数も著しく増加し、その人数を収容しうる大きな教会堂が建てられた。またこれまでと異なる宣教の方法、たとえば、カトリック雑誌の出版、宗教映画の映写会、若者たちのカトリック・アクション、講演会などにより大きな宣教の実りがもたらされた。トマス・デ・ラ・オズ神父が台北帝大医学部の教授と学生にカトリックの教義について毎週おこなった講演会は特記すべきものである。

第二次世界大戦が勃発する1941年、軍港となった高雄と基隆から宣教師たちが追放されたり、スパイ容疑で嫌がらせや監禁されたりした。そして教区長トマス・デ・ラ・オズ神父はその職を辞任し、現在長崎大司教である里脇浅次郎枢機卿が教区長に就任した。戦争末期にはアメリカ空軍による爆撃が激しくなり、宣教地の多くの建物が損害を受けた。

中国大陸に共産政権が樹立し、蔣介石政権が数百万の避難民とともに台湾に流入してきたが、その中には多くの教会関係者もいた。それまで至聖ロザリオ管区が全島を宣教してきたが、新しい教会組織が編成され、現在はドミニコ会土ホセ・チェン大司教が教区長である高雄教区のみを担当している。至聖ロザリオ管区が最初に福音宣教した台北地区にはドイツ管区が新しく宣教を始めた。また、1978年6月16日、中国人ドミニコ会土だけの準管区が至聖ロザリオ管区から独立し、総長代理のもとで活躍を始めた。準管区は保護者として「中国の元后マリア」をいただき、将来は台湾のみならず中国本土においてドミニコ会が根づき、枝葉を広げていくことであろう。

Copyright (C) dominico. All Rights Reserved.