Convento de San José
Sei Yosefu Shudoin
Kinuyama 5-1621-1, Matsuyama-shi, Ehime-Ken 791-8025, Japan
Tel. 81 89 926 1171
E-mail.sanjose_japan@yahoo.com

聖ドミニコ修道会ロザリオの聖母管区四百年史(1587-1987)

朝鮮半島への宣教の試み

秀吉が朝鮮に侵略した時、人質になった朝鮮人の若者がマニラに来て洗礼を受けた。模範的な信仰の持主で、祖国に帰るに際して、どうしてもドミニコ会司祭を祖国に連れていき福音を広めたいと願ったので、管区は朝鮮の宣教を計画した。1619年6月13日、後に日本で殉教をとげる福者フアン・デ・サント・ドミンコ神父、フアン・バウチス夕・カ一ノ神父、ディエゴ・デ・リパベリョーサ神父の3人がマニラを出発し、長崎経由で朝鮮に向かった。長崎では彼らのために渡航の準備がされていたが、長崎代官の1人が反対した。ドミニコ会の依頼を引き受けた日本側の保証人も保証を取り止めた結果、朝鮮に渡ることができなくなった。そこで若者は朝鮮から船を差し向けることを約束して、1人で国へ帰った。しかし、若者からなんの連絡もないので、マニラから来た3人のうちサント・ドミンゴ神父は日本に残り、他の2人はマニラに帰ってしまった。こうして実現はしなかったものの、17世紀の始めに管区が朝鮮宣教の計画を実行しようとしたことは特記すべきであろう。

スペインにおける管区

至聖ロザリオ管区はフィリピン、中国、その他のアジア諸国に福音を述べ伝えるために創立されたものであるから特別な管轄地域を持たず、必要に応じて「旅する宣教管区」である。広大な宣教地での活動をするにあたって、どのように人員の確保をしたか興味がある。それは創立当初から、至聖ロザリオ管区の生みの母であるメキシコのサンチャゴ管区やヨーロッパの諸管区からも応募者を募ったが、主としてスペインにある3つのドミニコ会管区、スペイン、アラゴン、ベチカから東洋宣教を志す人が自発的に応募し、マドリッドに置かれた管区事務所に集り、宣教団を編成、逐次フィリピンへ出発していった。1587年にフアン・クリソストモ神父の呼びかけに答えた管区創立者たちや初期の宣教団をのぞいて、1604年から1830年までの226年間に48の宣教団が編成され、1047名の宣教師がフィリピンに到着している。

スペインのカディス港を出帆した宣教師たちは大西洋を渡り、メキシコの東海岸に上陸する。そこから西海岸にあるアカプルコ港まで徒歩で横断した。さらに、太平洋を小さな船で何カ月も続く苦しい船旅をして、やっとフィリピンに到着するのである。台風による遭難、船中で発生する伝染病、その他の旅の難儀に途中で死んだ者も多い。ある者はメキシコ・サンチャゴ管区に止まったり、ある者はスペインに帰ったりもしたが、このドミニコ会士たちの持っていた純粋な宣教魂に驚嘆しない者はいないだろう。また、こうした宣教団の派遣に要した費用は巨額なものであるが、すべてスペイン王室の国庫から支出されており、その福音宣教にかける熱意にも驚かされる。むろん、管区はフィリピン、トンキン、中国、日本などの各宣教地でドミニコ会士養成を行ったのはいうまでもない。

19世紀の初め頃、ヨーロッパでは新しい激動の時代が始まった。これまでの絶体王制が崩壊し立憲君主制へ、やがて共和制へ変化していった。スペイン本国のみではなく海外の植民地にも社会主義が広がって、極左主義者による反教会運動は各地の教会や修道院を破壊していった。事実、スペイン本国のドミニコ会3管区は共和政権によって抹消され、1821年、メキシコはスペイン本国より独立し、至聖ロザリオ管区の母であるサンチャゴ管区が解散させられた。スペインにあった3つのドミニコ会管区の崩壊は、そこから人員の補充を得ていた至聖ロザリオ管区にとっては大問題であった。

他方では、フェルナンド七世は王にたいする忠誠心を保持するフィリピン、キューバ、プエルト・リコなどの海外植民地にある修道会を保護した。そこで、1828年、至聖ロザリオ管区は国王の許可を受けてオカーニャに修練院を開き、管区固有の宣教師を養成してフィリピンへ送り出すことを決定した。2年後、オカーニャの修練院が創設された。そこで、行われた養成法は至聖ロザリオ管区独特なもので、ドミニコ会会憲と管区規則を文字通り厳格に順守し、従順、貞潔、清貧の3誓願の他に、たとえ生命の危険があろうとも上長の命令により宣教師としてフィリピンに行く第4の誓願を立てるというものであった。こうして至聖ロザリオ管区は自分の創設の目的を忠実に果たそうとしたのである。

管区は司祭養成に大切な勉学に適した場所を探していたが、アビラ司教フェルナンド・ブランコの仲介によってイサベラ女王からアビラ王立修道院が移譲された。これには、フィリピンに送る宣教師を養成する学院にするという条件が付けられており、この条件に違反する場合には直ぐに女王およびその後継者に返還することと定められた。こうして1875年、「アビラのサント・トマス修道院」が設立されて、管区は修練院と哲学院はオカーニャで、神学院はアビラと宣教師の養成組織が完成したのである。

さらに人員確保を促進するために、1903年にサンタ・マリア・デ・ニエバに司祭職の召し出しを感じる子供たちを集め、無料でラテン語や人文学科を教える学校を設立した。メホラダには学生修道者のために夏の家を、バルセローナには東洋宣教に旅立つ修道者のために船待ちをする家を作った。

1931年4月14日、王制が倒され、共和国になった。共和政権はカトリック教会に対して敵意を表わし、暴徒が多くの修道院や教会を襲った。世情不安から管区の修練者や学生修道者のある者たちは修道院を去り、また兵役の義務が修道者にも課せられたので多くの若い修道者が召し出しを失ってしまった。

やがてフランコ将軍が共和政権打倒の戦いを始め、内乱となった。管区はアビラにいた50名の学生修道者を設立されたばかりの香港サン・アルベルト・マンノ修道院に、またオカーニャにいた学生修道者をサラマンカのサン・エステバン修道院に避難させた。しかし戦乱の地に残っていた修道者の運命は悲惨であった。フランコ軍に徴用されたアビラの修道院は共和軍の飛行機によって爆撃されたので、避難した修道者たちは共和軍によって殺害された。またオカーニャの修道院では所属する41名の司祭のうちの多くの者が殺害された。そこで勉強していた40名の志願者は、生命に別条はないものの、無神論や共産主義の教えを押し付けられて殆どの者が召し出しを失ってしまった。そのほかバルセローナでは4名、マドリッドでは10名の司祭が殺され、管区は多くの人材を失ったのである。

フランコ将軍の勝利から半世紀たった今、スペインは再び王制に戻り、総選挙の結果、社会主義政権が誕生している。かっての激しい迫害はないものの、思想的にはフランコ政権による長い独裁政治にたいする反動から生じた宗教への無関心、享楽主義からカトリック国スペインでも修道生活や司祭職への召し出しは極端に減少している。管区がこれからも広大な東洋宣教の使命を果たしていくために、これまで以上の人材を必要とする。「刈り入れは多いが、働く人は少ない。だから刈り入れのために働く人を送ってくださるように刈り入れの主に祈り求めなさい」と言われたイエズスの御言葉を思い起こすのである。

Copyright (C) dominico. All Rights Reserved.