Convento de San José
Sei Yosefu Shudoin
Kinuyama 5-1621-1, Matsuyama-shi, Ehime-Ken 791-8025, Japan
Tel. 81 89 926 1171
E-mail.sanjose_japan@yahoo.com

聖ドミニコ修道会ロザリオの聖母管区四百年史(1587-1987)

フィリピンにおける発展

管区がマニラの北部にあるバタアン地方やパンガシナン地方に宣教師を派遣したことはすでに述べた。当時、貿易に従事する多くの中国人がマニラ周辺に住んでいた。彼らの言葉の習得の難しさと長い歴史の中で固く受け継がれてきた独特な生活習慣になじめないことから、彼らに対する宣教は全くなされていなかった。サラサール司教は彼らに対する宣教を管区に勧めたので、3人が中国語の習得を始めた。そのうちの1人、コボ神父は中国語の辞書や文法書を発行するほど彼らの言葉を習熟していたことが、後にフィリピン総督の使節として日本に派遣された理由の1つであったに違いない。管区は中国人に対する宣教事業として、1597年、「サン・ガフリエル病院」を設立し、病気に苦しむ者のために奉仕活動を始めた。現在もマニラ市ビノンド地区においてフィリピン在住の中国人に対する宣教は続けられている。

1594年、マニラ総督の要請に答えて、新たに探検されたルソン島北部のカガヤン渓谷地帯の宣教を始めた。さらにルソン島と台湾との間にあるパシ海峡の島々に、1686年にはパブヤネス諸島に、1688年にはバタネス諸島にドミニコ会宣教師が派遣され、そして現在もなお宣教活動が続けられている。

1602年、マニラの南方にある小高い山に「サン・フアン・デル・モンテ修道院」を開設した。これは黙想の家で、管区の宣教師たちが精神的な休息を取る場所になった。現在、マニラ市民には「黒いキリスト像」の巡礼地として親しまれている教会である。建物全体は改築されて様子が変わっているが、石造りの教会前面部は創建当時のものである。

管区も、そしてマニラ大司教ベナビーデスもマニラに教育施設を設立したい強い望みを抱いていた。大司教はこの計画の実現を見る前に死去するが、計画実現のために素晴らしい図書館と1500ペソを管区長ベルナルト・ナヴァロ神父に残した。いくたの困難を克服して、1611年4月28日、学徳ともにすぐれた偉大なドミニコ会士アキノの聖トマスを保護者としていただく「サント・トマス大学」が設立された。現在は12学部からなる総合大学で3万5千の学生を有し、アジアでもっとも古い恒歴史を誇る近代的な大学である。

1652年、管区はもう1つの教育施設を設置した。それは現在マニラ市内でもっとも有名な高等学校の1つ、「サン・フアン・デ・レトラン・カレッジ」である。その由来は次の通りである。1620年頃、マニラで徳望のあったスペイン軍人、フアン・ヘロニモ・ゲレロが市内を放浪する孤児たちを助けようと、自分の家を改造して「サン・ファン・デ・レトラン孤児たちの学校」と名づけ、孤児たちを収容し初歩的な教育を与えていた。ゲレロは老齢になってその施設を管区に移譲し、自分は修道士としてドミニコ会に入会した。同じ頃、サント・ドミンゴ修道院のディエゴ修道士が「サン・ペドロ・サン・パブロ孤児たちの学校」を運営していたので、管区は同じような2つの施設を統合してサント・ドミンゴ修道院の近くに移し、世話を始めたことにある。1690年、正式な学校となり、ケソン大統領やオスメニャ大統領など多くの現代フィリピンの指導者を育成してきた。

管区はキリストを知らない人々に宣教するだけではなく、すでに信じた人々がより深くキリストを愛するために、会祖聖ドミニコから遺産として伝えられた「ロザリオの信心」を広めることも忘れなかった。また、家庭にあって妻や母としての女性が持つ大きな影響力を考え、ドミニコ会の精神的家族である「在俗者第三会」に入会を勧め、彼女たちの信仰を育成することに配慮してきた。特に、「ベアタス」と呼ばれる修道院生活をする女性第三会員の養成に尽力した。1698年の管区会議は「サント・ドミンゴの第三会」の設立を正式に承認している。これが、日本では「聖カタリナ学園」という女子教育事業、あるいは病院や特別養護老人ホームなどの愛徳事業を通して宣教活動をしている「聖ドミニコ宣教修道女会」の起源なのである。

フィリピンにおけるスペイン統治が安定するにつれて、教会組織の樹立、諸修道会の努力によってアジアでは唯一のカトリック国になった。そして管区の宣教活動も質量ともに順調に発展していった。しかし、19世紀末のフィリピン独立戦争、アメリカ合衆国による統治への移行、そして私たちの記憶にまだ新しい太平洋戦争中、日本軍の侵略と破壊はフィリピン国民とカトリック教会に甚大な損害を与えたが、至聖ロザリオ管区もまた物的にも人的にも大きな被害を受けた。

1933年、香港に開設されたサン・アルベルト・マンノ修道院は修練院、哲学部および神学部を備え、ここでアジア出身者のドミニコ会士養成が始められた。優秀な人々はヨーロッパの諸大学に派遣され、さらに研鑽を積んだ。戦後、ここから巣立った優秀なフィリピン人ドミニコ会土が増加し、フィリピン人のみの管区が誕生することになった。1971年12月8日、マニラで開かれたドミニコ会総会において「フィリピン管区」の独立が承認されたのである。

かってメキシコの「サンチャゴ管区」から生まれた「至聖ロザリオ管区」は、今、母となって「フィリピン管区」を生み出す喜びを味わった。4世紀にわたって本部修道院であった「サント・ドミンゴ修道院」を新管区にゆずり、フロンティア精神に燃える「至聖ロザリオ管区」は香港に本部を移し、新たな宣教の地平線を見詰めている。

Copyright (C) dominico. All Rights Reserved.