3.従順の誓願
聖書は、神のしもべとして、救い主を示しています。「神は仰せになった。これこそ私の選んだしもべ、私の心にかなう愛する者、彼の上に私の霊を降そう。」(イザヤ、42.1)又、「主よ、私はここにいる。あなたのみ旨に従うように。」(ヘブライ人、10.9)とあります。
主人がしもべに求めるのは、「仕える」こと「忠実に従う」ことです。「キリストは死に至るまで、十字架の死に至るまで、へり下って従う者となった。」(フィリピ、2.8)これこそイエズスの真の姿であり、イエズスが要求なさるのは、すべての信者が人々の前に同じようなしもべの姿を示すことです。(マルコ、16.43。ヨハネ、13.14)一般信者も、イエズスが願ったことを素直に果すよう努めましょう。
従順の誓願によってイエズスについて行くことを約束した修道者は、イエズスに服従する「専門家」でなければなりません。イエズスがお示しになった最も大切な手本は、父への従順であり、本会の会憲においてもこのことが大変重要視されているのは当然であり、救いの精神がここにあります。「一人(アダム)の不従順な者によって他の人が罪人にされたが、一人(イエズス)の従順によって他の人が救われた。」(ローマ、5.14)
シエナのカタリナは、この聖書の箇所を次のように解釈をつけ加えています。「神は私に仰せになった。私の愛している人間が、その完成である私から離れてしまったという状態を耐えることが出来なくなった私はあわれに思い真理たる優しい「愛の言葉」である我子イエズスに従順のかぎを渡した。天の門の門番であった彼は、従順のカギをもって門を開いた。」(対話より)イエズスは、「従順のカギ」をもって天国の門をあけて下さり、さまよっている羊を天の囲いに集められ、一つの群、一つの共同体として下さいました。
「一つの共同体・・・」本会において従順と共同体とは密接に結ばれています。「聖ドミニコは会員達に対して只、共同生活と従順を自分に約束するようにと願いました。」(会憲17番)本会の会憲の第一章は「共同生活」であり、第二章は「従順」ですが、偶然では決してなく深い意味があります。従順がなければ、共同生活は実行出来ません。
従順は福音的勧告を全うさせる三つの誓願のうちの一つであり、その中で最も大切な誓願です。これを示すように本会の男子のメンバーが福音的勧告を果すために、三つの誓願ではなく、只一つ従順の誓願しかたてない程です。その中に他の誓願が含まれている訳です。トマス・アクイナスによりますと「従順によってわたし達の心の中で自分に打ち勝つことが出来、神の子らの自由を得ることができます。そしてわたし達自身をすべて奉献することになり、従順の誓願によって清貧、貞潔、使徒的生活にからむすべてが受け入れられるのです。」
従順について次のことも言っておきましょう。他の誓願の中で従順が最も勝れているという理由が三つあります。先ず、修道者は、自分の意思をすべて神に捧げます。この奉献は体(貞潔)及び個人的な所有権(清貧)の放棄よりすぐれています。次に、「神は愛である」と言われ、愛を全うする最もよい態度は、神に近づくことです。それ故、従順の行為は愛の完成に最も近い行為です。貞潔及び清貧の誓願を立ててもまだ修道者にはなれません。従順の誓願によってこそわたし達は「修道者」と呼ばれるのです。三番目の理由は、貞潔及び清貧の誓願は従順の誓願の中に含まれています。例えば清貧を守るように約束することは、この約束に服従することを誓い、貞潔を守ることを約束すると共に、この約束に服従することを誓うからです。結局、一つの修道団体が固有の精神や固有の使命に忠実にとどまるためには、統一の原理を必要とするのですが、それはドミニコ会において従順によって得られるのです。
右の事項については、他の修道院と比較しますと、この面、即ち従順の誓願がドミニコ会の統一の原理となっているということが独特であり、本会の霊性の特徴の一つとなっています。そのメンバーが互に一致し、一つの心で調和をもって生活することが出来るのはこのためであり、互いの尊敬、互いの信頼をもって長上に従いながら、同じ目的を果し、そのために努力することは、団体の存在において欠くべからざる条件であります。
本会のメンバーが服従するのは、共通善の要求を果すためで、これは正義の徳の一部です。「正当な長上に従うことは、個人的にも団体的にも、正義の徳に基づく義務です。」と、トマスは言っていますが、この説はすべての修道会が認めてはいないようです。どちらが良いかということは別ですが、ベネディクト会や16世紀にできたイエズス会においても、これらの修道会の従順の誓願は、団体的使命ではなく、立体的な価値しか考えられていないと言われます。立体的とは神と立願者あるいは後継者の間のつながりを示す誓願です。その場合、長上は霊父のように思いがちですが、ところが托鉢修道会、特にトマス・アクイナスの教えを尊重しているドミニコ会は違います。
托鉢修道会は従順の誓願に立体的な次元を与えながら、特に平面的な次元を与えるのです。その場合、長上は権威のある人であると共に、会員達のしもべのように見えます。「兄弟姉妹に従順を義務づける共通善の要求によって、長上は喜んで会員達の言うことに耳を傾け、又、時に重大な事柄に関しては、その意見を求めなければなりません。ただし、当然実行すべき事柄を命ずる長上の権限は、そのまま保持されねばなりません。このようにして、修道会全体は、一つの愛の共通の目的に向かって進んで行くことができるのである。」(会憲20番)以上載げたことを考えますと、会員達が守るべき従順には三つの特徴があります。
※誠実な従順です。
これは先ず長上に対する態度です。「聖アウグスチヌスの戒律」及び本会の会憲が述べているように、会員達は正当な長上の命令、忠告、勧め、希望などを尊重し果すことにおける従順、誠実な心をもって共通善を全うするのです。
そして、修団に対する態度です。前に話した平面的な従順を示すことですが、非常に大切な面です。職務の遂行や何か事業の着手に当ってそれに対応する責任を自覚させ、又共通善に属する限界内で各自の職務上の責任をよく果すのは共同体に対する誠実のあらわれです。
※分別を伴う従順です。
これはドミニコ会らしい態度です。この場合長上は霊父であり、神の代理者、前にも述べたとおり、父と子、先生と弟子であって他の会員と誓願による直接的な関係がありません。托鉢修道会、とりわけ特にドミニコ会は立体的面と共に平面的面が生かされており、この場合長上は、権威ある人でありながら、会員達のしもべであり、長上はじめすべての会員は皆兄弟姉妹です。従って皆、直接的に従順の誓願によって結ばれています。
ここにおいて、兄弟姉妹に対する従順の義務付けの理由があり、本会の霊性の特徴を見出すことができるのです。「会員達に従順を義務づける共通善の要求によって、長上は喜んで会員達の言うことに耳を傾け、又特に重大な事柄に関しては、その意見を求めねばならない。」(会憲20番)
但し、実行すべき事柄を命じる長上は、命令する時、その理由を言うのは当然であり、機械やロボットではなく、知恵と自由意思を有する会員ですから、命令される方は、聞く義務があります。しかし(これは極端なケースですが)、例外的に長上が説明できない時もあります。そんな時会員達は盲目的にその目的に合わせる従順の義務を負うのです。原則的には前記の方が、ドミニコ会霊性に基づく理想的な態度です。
※自発的な従順
ドミニコはすべての会員達に自発的従順を要求しました。会員達の側からは、主の意思に対する信仰と愛の精神及び兄弟的協力の精神を持って長上に応え、心から長上を理解するように務め、長上の命令を賢明に注意深く果します。任務の遂行にあたって、会員達は迅速にして熱心、遅滞なく単純にして無益な詮索のない従順を実行するのです。シエナのカタリナの「対話」から言葉をかりてまとめてみましょう。「ドミニコ会的修道生活は全く自由で広々としており、喜びとかぐわしい香を放っている天国の一つのあらわれにほかならない。」従順の誓願によって、会員は、これによって自由な人として、自発的に父の意志に服したキリストに倣い、これに倣いつつこれによって、共通善のために他の会員達と共に奉献することを知るべきです。
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