1601(慶長6)年の春、マニラのサント・ドミンゴ修 道院長モラーレス神父は訪ねて来た数人の日本人キリ シタンと話しをした。船頭の吉右衛門や水夫のジョアン三 太夫によると薩摩ではかなりのキリシタンがおり、宣教 師を待っているとのことであった。薩摩は聖フランシスコ ・ザビエルが最初に宣教した所であり、関ケ原の戦いで 敗れたキリシタン大名小西行長の娘イザベルの夫、ディ エゴ小西美作が500人のキリシタン家臣を連れて八代か ら薩摩の島津氏を頼って移住し、江口城に居住していた。 そこで、管区長オルマーサ神父は彼らの郷里である護摩 の殿に書簡を書き、「許されるならば、領内に修道士を派 遣しよう」と申し出た。島津忠恒(後の家久)は、その 年の9月22日付けの書簡で、「ドミニコ会士を薩摩に迎えたい」と言ってきたのである。
管区会議が開かれ、日本宣教に関する2つの問題点を 討議した。1つは前述の教皇勅書であるが、マニラ司教 や総督と相談した結果、「薩産の散からの招待であるから 修道士派遣は差し支えなし、教皇には事後承諾でよかろ う」と結論された。もう1つの問題、人員の件は折良く スペインから31名のドミニコ会土がマニラに到着したこ とで解決された。早速、第一次日本宣教団が結成され、 サント・ドミンゴ修道院長フランシスコ・モラーレス神 父が管区長代理に任命された。一行はトマス・エルナン デス、アロンソ・デ・メナ、トマス・デ・スマラガの諸 神父とフアン・デ・ラ・アバディア修道士で、全員の平 均年齢が30歳という若さであった。1602(慶長7)年6月1日、モラーレス神父に来日を要請する島津忠恒の書 簡を持って来た吉右衛門の船でマニラを出発した。船中 で、彼らは管区規則を忠実に守り、清貧に徹した生活を 証しするために、持っていた現金を加長の吉右衛門に渡 し、自分たちの財布を空にしたのである。 35日間の航海の後、7月3日夜、一行は吉右衛門の出 身地、甑島に上陸した。その場所は鹿児島県串木野港の 沖にある下甑島長浜町手打の浜辺で、そこには地元の人 々の手によって立派な「宣教師上陸記念碑」が建立され ている。彼らはその地で一番よい家(寺であろう)に案 内された。そこで、マニラ総督から贈られた聖母マリア の絵を飾り、一同は「サルベ・レジナ(聖母賛歌)」を歌 って無事な到着を感謝し、最初の夜を過ごした。
翌日、吉右衛門は島津忠恒に一行の到着を知らせに行き、神父たちは海岸に船の帆で天幕を作って来日最初のミサを捧げた。10日ほどして迎えの者が来て、島津忠恒が居住する帖佐に案内された。彼はドミニコ会士に好意を寄せ帖佐に留まるように勧めたが、側近の仏僧が「大友宗麟や小西行長のごとくキリシタンになったゆえに不幸になっては」と反対したので、一同は甑島に帰されることになった。関ケ原の戦い以来、不和の状態であった家康に無断でスペイン人宣教師を薩摩に入国させたことを心配したからであろう。帖佐で4カ月も滞在している間に、一行が宿泊していた家の家族が彼らの生活態度を見て受洗したことが最初の宣教の実りとなり、大きな喜びとなった。
船長の吉右衛門が廃材を利用し小さな家を造ってくれたので、数枚の藁の莚を敷いた2つの部屋を作り、1つを教会に、他を住居にした。離れし小島での生活がどんなに苦しいものであったか、メナ神父が記録している。最低の衣食住に甘んじ、時々、村人が同清Lて魚をくれた。病気になっても医薬がない。特に冬の寒さはきびしく、寝具は管区規則で決められた通りに1枚の毛布を敷き、1枚を上に着るだけであった。生活の苦労に倍する苦しみは日本人キリシタンから一行が「破門者扱い」されることであった。1600年12月12日、クレメンス八世はグレゴリオ十三世の勅書を廃止し、マニラの托鉢修道会もマカオ経由で日本に渡航するならば、宣教を許可すると決定した。そこで在日イエズス会はマニラから直接日本へ行ったドミニコ会をクレメンス八世の決定に反した者として「破門者扱い」にし、このことを信徒の聞に周知徹底させていたからである。1604年3月、エルナンデス神父は病気になり、管区会議に出席するメナ神父とマニラに帰った。モラーレス神
父は管区会議にあてた書簡を2人に託したが、その中で
自分たちの貧しさにもかかわらず、貧しい人を助けるた
めの援助金を依頼し、また管区規則の順守について、板
の上で寝る代わりに藁の蓮を使用してよいかと指導を仰
いでいる。そして管区規則に違反しないかぎり、自分を
日本人の生活に順応させる決意を述べている。最後に日
本語の習得が難しいので派遣される修道者は語学力のあ
る人と説いている。
モラーレス神父は目を治療するために長崎へ行くが、
たどたどしい日本語でロザリオの信心について説教し、
2万人が信心会に入会した。またセルケイラ司教に会い、
「甑では2人の病人に臨終の洗礼を授けた」と報告した。
司教は1603年1月10日付けのクレメンス八世への報告書にそのことを書き、ドミニコ会宣教の無為無策を告げて
いる。しかし甑島に帰ったモラーレス神父は、数カ月後
に、「ここで無為に過ごしているのではなく、日本語や風
俗習慣に習熟するに従って成果もあがり、大人と子供を
あわせて80人に洗礼を授けた」と司教に報告している。
1603(慶長8)年、征夷大将軍となった家康に臣従し
た島津忠恒は家久と改名し、領内に滞在するドミニコ会
士が家康のもとに伺候するように命じた。そこで、メナ
神父は薩摩から伏見まで遠路の旅をして家康に面会した。
貧しい彼らは献上する贈物を準備できなかったが、家康
はメナ神父に好意を示していろいろな質問をし、ドミニ
コ会が日本全国で宣教してよいと許可したので、彼は喜
びに満ちて甑島に帰ってきた。
メナ神父と家康の会見が成功したのを見た島津家久は
ドミニコ会に貿易船を派遣するように求めてきたので、
管区会議に出席するメナ神父がこの貿易問題を持ってマ
ニラに帰った。管区はデイエゴ・ホルヘを船長とする貿
易船を準備して薩摩に派遣した。1605年の夏、この船は
薩摩に到着したものの、嵐のために沿岸で難破して全部
の蹟荷を失ってしまった。至宝ロザリオ管区はこの出来
事から「今後は貿易という手段で宣教すべきではない」
という神の定めを見、もう二度と貿易に手を出すまいと
決心したのである。
島津家久はこの失敗にもかかわらず、将来の貿易の利益を考えて、ドミニコ会に好意を見せ、多くの援助を与
えようと申し出たが、彼らは管区の精神に反するからと
その援助を断り、ただ甑島のよい場所に修道院と教会を
建てる許可を願った。この新しい場所は現在の里村であ
ろうと考えられているが、第2番目の教会は1605(慶長
10)年8月15日に献堂式をしたが、14日後に台風のため
倒壊してしまった。そこで家久の許可を得て九州本土に
ある京泊に移ることになった。
3年にわたる甑島での生活が終わるが、ドミニコ会士 が最初に建てた教会は甑のどこであったかを確認できた 興味深い出来事を述べておきたい。1979(昭和54)年7 月28日、彼らの上陸記念碑が除幕される前日のことであ った。下甑島長浜町手打の浜に「船長の家」と呼ばれる 旧家があり、ドミニコ会士をマニラから連れてきた吉右 衛門の子孫が「南」姓を名乗って現在も住んでおられる。 その家に重さが2キログラムほどの丸い石が保管されて いる。それにいくつかの文字が彫ってあるので、鹿児島 県川内教会のロータル・ハイシング神父と地元のキリシ タン史家浅川鉄州氏が拓本に取ってみると、上部に 十字のしるしがあり、その下にローマ字で「O.P.MENA. JONA.BADIA A.D.1602」と書かれてあった。「O.P.」は 「Ordo Praedicatorum」の略で「ドミニコ会」を意味し、 「MENA.JONA BADIA」は「メナ神父とバディア修道 士」の名前で、「A.D.1602」は「Anno Domini 1602」の略で「西暦1602年」のことである。その石は100年ほど前に南さん所有の畑から掘り出されたもので、まさしくそ の場所こそ至聖ロザリオ管区が日本で最初に建てた教会 であったことを証明する定礎石である。今、この石は長 浜町の手打の浜に建設した郷土博物館に展示されている。
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