Convento de San José
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日本における宣教

(16)ドミ二コ会最後の殉教者たち

日本地区ドミニコ会の全滅を知らされたマニラの管区本部は密かに船を準備し、管区長代理アントニオ・ゴンザレスと3人の神父ギロルム・クルテ・、ミゲル・デ・アオサラサ、ヴィセンテ塩塚を日本に派遣した。長崎出身の塩塚神父はマニラに追放され、かの地で司祭となり働いていたが、日本に向かう直前にドミニコ会に入会した人である。この一行に「京都のラザロ」と呼ばれる日本人とロレンソ・ルイスというフィリピン人が同行した。一行は1636(寛永13)年7月10日、琉球に着くと直ぐ逮捕された。翌年9月、長崎に護送され、尋問の後、水責め、竹串を爪先に突刺す拷問が何回も繰返されたので、体が弱っていたアントニオ管区長代理が24日の夜明けに絶命した。27日には残りの5名が馬に乗せられ市中引き回しの上、西坂で穴吊りの刑を受けた。この刑で京都のラザロとロレンソ・ルイスは絶命したが、生き残った3人の神父は最後に斬首されて神の御許に召されたのであった。
こうして17世紀におけるドミニコ会至聖ロザリオ管区の日本宣教は一旦中断して、20世紀初頭に再開されることになる。以上述べてきた壮絶な殉教による宣教の陰には、神父たちを助けてくれた多くの信仰深い、そして勇敢な宿主や伝道士がいたことを忘れてはならない。教区司祭アントニオ村山神父(長崎代官村山等安の息子)が1614(慶長19)年に長崎で組織した「ゼススの組」には(神父の死後ドミニコ会士に引継がれるが)一般会員のほかに「ヌメロ」と呼ばれる組員がいた。多い時には300名もいたが、彼らの仕事は迫害下に神父たちを匿い、必要な所はどこへでも案内し、病気の際には看病し、危険から救い出すこと、また牢内に忍び込んでキリシタンたちを励まし、殉教の時には先頭に立つことであった。この「ヌメロ」の組員の多くが宿主であって、もし修道者を匿っていることが発覚すると、自分は無論のこと家族の者も、向こう三軒両隣の者も死罪となるのを覚悟の上である。この「ヌメロ」の組員は同時にモラーレス神父が組織した「ロザリオの組」員でもあった。
また日本に着く前に遭難した何人かの宣教師がいたことも忘れてならない。特に記憶に止どめたい人はルエダ神父である。1604年に来日して16年間も宣教し、病気のためにマニラに帰った。マニラでは、ローマ字で書いた日本文の本「ロザリオの記録」を出版し、それを携え、再び日本宣教をめざして琉球諸島の石垣島に漂着する。そこの代官石垣永将を洗礼に導くが、そのために2人は殉教している。1623年に起こった沖縄最初の殉教者のことは台湾から沖縄に渡り、日本への渡航を待っていたトマス西神父が1630年1月3日付けの書簡で管区長に報告している。

(17)日本宣教再開への試み

1637(寛永14)年に派遣されたアントニオ・ゴンザレス神父らの一行4名が長崎西坂で殉教してから2年目、徳川幕府は完全な鎖国政策を実施した。それで至聖ロザリオ管区が日本で果たした35年間の宣教に一応の終止符がうたれた。しかし殉教者たちが命をかけた長崎や大村、そして佐賀のキリシタンのことを見捨てたのでは決してなかった。実現を見なかったが、1652年、管区長に選出されたペドロ・レド神父はヴァリェ神父、アンサ神父、バリオス修道土を連れて日本潜入の計画をたて、そのために教会の銀製品を売り払って1隻の船を購入した。だが宣教再開の実現を見るには、まだ待つ必要があった。
19世紀半ばになって世界情勢が大きく変わり、日本の鎖国が破れるのも時間の問題となったことを知ったローマ教皇庁は1846(弘化3)年パリー外国宣教会のフォルカード神父を琉球と日本の代牧司教に任命し、宣教再開に備えた。2年前からフォルカード司教は琉球の那覇に波り、日本語を学びながら日本入国の機会を待っていたが、ここでもキリシタン詮議がきびしく、島民と話すこともできない軟禁状態であった。
遂に1858(安政5)年、幕府は米英仏露蘭の5カ国と修好通商条約を結び、開国したのである。この条約にもとずいて外国人居留民にはキリスト教信仰の自由が許された。そこで翌年9月、パリー外国宣教会のジラール神父が日本教区長として横浜に上陸、やがて横浜と長崎に天主堂が建てられた。こうして日本宣教の開始はイエズス会によって行われ、再宣教はパリー外国宣教会によって始められた。
1865(慶応3)年3月17日の昼下がりのことであった。長崎の大浦天主堂で「サンタ・マリア」のご像を見た3人の婦人が250年の沈黙を破って、プチジャン神父の耳元で「われらの胸、あなたの胸と同じ」とささやいた声が「キリシタン復活」という歴史的出来事となった。無論、キリシタン禁教下のことであって、やがて「浦上四番崩れ」がおこり、浦上キリシタン3400人が西国21藩に総流罪となる。やっと1873(明治6)年に禁教令が廃止され、信仰の自由を取り戻して宣教再聞が始まるのである。
こうした日本の情勢変化に先立つ1843年、至聖ロザリオ管区は日本の旧宣教地を再興するために1人の神父を派遣することを決定していたが、フィリピンにおける政治情勢の変化のためにその計画は実現されなかった。長崎における「キリシタン復活」の知らせを聞き、また1867年7月7日にピオ九世教皇が列福された日本二百五福者殉教者のうちの110名が至聖ロザリオ管区の関係者であることを思う時、日本宣教再開への熱意は高まるばかりであった。しかしフィリピンの独立戦争、そしてアメリカがフィリピンの主権者となったために、至聖ロザリオ管医の望みが実現するのは20世紀初頭になった。

(18)四国でドミ二コ会宣教が再開される

1903(明治36)年管区はセラピオ・タマヨ神父とエヴァリスト・トレス神父の2人を日本に派遣し、各地の司教とドミニコ会宣教再開の問題について話し合った。長崎司教が鹿児島地区を、そして大阪司教は四国地区の宣教を委嘱しでもよいと提案したので、管区は四国地区の宣教を引受けることになった。宣教事務所のある香港と船便で結ばれている神戸に近いという理由からである。こうして教皇庁布教聖省から1904(明治37)年1月27日付けで出された決定書により、四国は大阪司教区より独立して四国知牧教民となり、至聖ロザリオ管区に宣教事業が委嘱された。教医長として台湾の宣教師であるドミニコ会土フランシスコ・ヒネル神父が任命されたが、彼はその織を辞退したので新たな人選に暇どった。それとは別に管区は台湾の宣教師であるホセ・マリア・アルバレス神父を管区長代理に任命し、宣教再開に備えて日本に派遣しようとした。日露戦争が始まり出発が遅れた。彼はその年の8月7日に神戸に上陸し、船便で高知にやって米たのは同月17日であった。高知は四国における最初の宣教地で、パリー外国宣教会のプレッシ神父が1882(明治15)年に宣教を開始し、182名の信者を擁する教会が存在している唯一の町であった。10月2円、教主はアルバレス神父を教区長に任命したので、彼が修道会と教 区双方の上長職を兼任する形で四国の宣教は始まり、このやり方で1914(大正3)年まで続くのである。
同年10月18日、4人の宣教師が高知に着いた。トマス・デ・ラ・オズ、ファウスチノ・ロドリゲス、ミリャンない青年男女を徳島教会に住まわせ、奨学金をだして中学、大学に進学させ、社会に役立つ人物を育成した。このように徳島教会で育ち、現在は教育者、技術者、薬剤師、医者、芸術家として活躍する人たちがアルバレス教区長を慕って1980(昭和55)年、師の記念碑を徳島教会に建立している。

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