Convento de San José
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日本における宣教

(20)高知地区の宣教

高知は明治維新の時に活躍した坂本竜馬、中岡慎太郎、板垣退助、岩崎弥太郎などを出した土地柄だけに早くから文明開化が始まった所であり、1882(明治15)年2月、パリー外国宣教会のメリー・プレッシ神父によって福音が伝えられた。熱心な信徒の協力で、田野村や清水(現在の高岡郡越智町横畑)に伝道所を開き宣教に務めた。8年余のあいだに四国の教会の創始者は117名の受洗者を得ている。その後を継いだ、デュトウ神父は県内のあちこちで当時珍しいスライド映写を用いた宗教講演会を開く。またトリンティニャック神父も篠原(現在の南国市)に伝道所を開き、良家の人々がかなり洗礼を受けた。22年におよんだパリー外国宣教会の諸神父たちの使徒職活動の実りは583名の受洗者、そのうち188名が残っていたが、復活祭のミサに出席する者は少なかった。これがドミニコ会が引継いだ時の高知教会に関する簡単な記録である。
オズ神父とファウスチノ神父が高知の宣教担当者となり、1905(明治38)年1月1日に「ロザリオ信心会」を創立した。47名の信徒、それに22名の北海道トラピストの修道士、修道女が入会している。神父たちと会員は毎週交替で信徒の家に集り、その家の家族や死者のためにロザリオを唱え、教理や信心の本を読んだ。彼らのうちに死者がでると、葬儀が大事にされた。また徳島の坂野で行われた福音宣教センターのような施設が清水や篠原に開かれていった。1912(明治45)年9月、管区長ボナベンツーラ・ガルシア・デ・パレデス神父が視察に来てから、新しい宣教の発展が始まる。管区長は視察の結果、四国宣教のために必要な3つの計画を発表した。 1.現状では良い伝道士の助けなしには宣教は困難であるから、伝道士学校を設立して良い伝道士を養成すること。
2.愛徳事業(たとえば、孤児院とか診療所)と教育事業を通しての宣教の大切さ。
3.典礼に相応しい教会を高知に建設すること。翌年、管区長の命令で高知に立派な聖堂、至聖ロザリオ管区日本地区本部として赤煉瓦造り3階建ての修道院が完成したまた管区長代理としてオズ神父が就任したので、これまでアルバレス師が兼任していた四国教区と修道会の上長職が区別された。それぞれの責任分担の範囲が明確にされ、双方の相互理解と協力によって宣教活動が始められるようになった。
1915(大正4)年、新しい高知教会には貧しい人のた めに無料診療所と伝道士学校が開設されたが、6年後に 閉鎖しなければならなくなった。その代わりに1922(大 正11)年、小神学校が開かれ長崎や台湾から神学生を迎えて邦人司祭養成が始められた。

(21)松山地区の宣教

松山地区には1885(明治18)年より最初の邦人司祭で大阪教区に属するペトロ深堀達右衛門神父が広島から出張伝道を行い、何人かの信徒がいた。間もなく神父は病気になり死亡するが、彼の後をパリー外国宣教会の神父たちが引き継いだ。2年後、エンリケ・ダリトン神父が久保町に家を購入して仮教会としたが、1902(明治35)年にイシドロ・シャロン神父が宇和島からやってくるまで定住する可祭はいなかった。その場所は現在「いよてつそごう」の裏側にある聖カタリナ高校永代町校舎のある所で、松山藩奉行所の建物であった。日露戦争で日本軍の捕虜となり、松山に収容されたポーランド人がカトリック信徒であったので、シャロン神父は彼らの世話をしていた。
アルバレス教区長は松山地区にファウスチノ・ロドリゲス神父を担当として任命した。神父は1906(明治39)年2月始めに松山へ行き、パリー外国宣教会のシャロン神父から業務の引き継ぎをする。当時の松山の信徒数は名簿の上では約40名であるが、その半数以上がすでに死亡していたり、行方不明になっていた。翌年、ここの担当者となったアンドレス・シモン神父は宣教活動にもっと適した場所を探していたが、1911(明治44)年に三番町に数軒の家が建っている土地をまとめて購入し、仮教会と宣教師の住まいにした。そこにフアン・カルボ神父は貧しい人のために無料診療所を開設してよい宣教事業を始めたのであるが、資金が続かず閉鎖したのは残念であった。
1918(大正7)年9月に主任司祭となったニエト神父は愛媛県都にふさわしい赤煉瓦造りの教会を建て、鐘楼にはスペインから取寄せた鐘が吊るされて美しい音色を響かせた。

翌年、松山の宣教にとって新しい事業が計画された。その年の黙想会に高知に集まった神父たちに相談した結果、管区長代理のフアン・カルボ神父は松山に女学校を創設し、その運営をドミニコ会修道女に委託することを決定した。1924(大正13)年、久保町に木造3階建ての校舎が建設され、またマニラから3人の修道女、テレサ ・スアレス・パトロシニオ・アルメンダリス、そして邦 人のアヌンシアシオン山内が松山にやってきたのである。こうして翌年の4月14日、「美善女学校」が開校された。 生徒数が20名、テレサ・スアレス校長と5名の先生で始められた教育事業は現在短期大学、3つの高校、6つの幼稚園を擁する聖カタリナ学園に発展してきている。この学校が当地の宣教にどれほど大きなよい結果をもたらしたかは説明しがたい。
また、松山についで大きな商業都市である今治には9名の信徒がおり、将来の宣教地として有望であった。そこで松山からマカリオ神父が出張伝道していたが、1926(大正15)年2月9日、恵美須町にあった2階建ての日本家屋を購入し、それを仮教会として今治教会が発足したのである。
1916(大正5)年5月18日、第2代目の担当者としてイシドロ・アダネス神父が着任した。1921(大正10)年は会祖聖ドミニコの帰天七百年祭にあたり、神父はその記念として洋風の教会堂と司祭館を建設し、また四国で2番目に古いカトリック幼稚園「愛和」を開設した。彼は1954(昭和29)年10月まで実に38年間もこの町で宣教して市民から敬愛された。この年、老齢のために故国に帰るが、1958(昭和33)年にスペインで死去する。神父の遺徳を称えて、彼の友人たちは宇和島教会に彼の銅像を建立した。

(22)宇和島地区の宣教

宇和島地区にはペトロ・アウリエンチス神父が広島から出張伝道していた。1891(明治24)年、司祭が定住する教会が建てられたが、シャロン神父が松山に移った後は、1人の伝道士がいるだけで、司祭不在のままになっていた。
この地区の担当者となったミリャン神父がやってきたのは1906(明治39)年6月2日のことである。宇和島市内には信徒は1人もおらず、田舎の平城(現・御荘町)に2家族の信徒がいるだけであった。そこで翌年、宇和島市内に戻り、城山の麓にある丸ノ内に広い土地を手にいれ、聖ドミニコに捧げた小さい聖堂を建てた。

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