前述の平山常陳事件で、オランダ商人が逮捕したフローレス神父とアウグスチノ会のスニガ神父を拷問にかけて宣教師であることを自白させ、長崎奉行所につきだした。2人は船長のホアキン平山常陳と船員12名と共に平戸から長崎西坂の刑場に引き出された。国鉄長崎駅の広場を横切るとNHK長崎支局があるが、その横の坂道を登れば二十六聖人記念碑がある。そこは日本二十六聖人が十字架につけられた場所である。1622(元和8)年8月19日、その同じ場所で12名の船員は斬首され、2人の神父と船長は長く苦しむようにと緩やかな火で焼き殺された。
それから1カ月も経たない9月10日、神父や修道士、老若男女のキリシタン57人が処刑され、いわゆる元和の大殉教が起こるのである。奉行長谷川権六は江戸からの指令で宣教師、伝道士、宿主は火あぶり、宿主の家族および隣人はすべて斬首を宣告した。この間にコリャード、バスケス、カステリェットの3名の神父は手分けして大村の鈴田、長崎の桜町と矢上の諸牢に囚われている人、身元引受け人に預けられている宿主の家族や隣人を訪問し、殉教への準備をさせるために働き続けたのである。
鈴田の牢の24名は長与まで船で、長与から両手を縛られたままで馬に乗せられて浦上に連行され、そこで夜を過ごした。翌日、一行は静かに「テ・デウム・ラウダームス」や詩編などを歌いながら刑場へ向けて進んだので、
「死に赴く人のようではなく、まるで天使の聖歌隊のようであった」とコリャード神父は目撃者として記録している。長崎から来る33名が到着するのを待つ1時間ほどの間、集まった人々に説教したり、親しい人々と挨拶をかわしたりした。長崎組の先頭にたって歩いてきたのは殉教者アンドレア村山徳庵の夫人マリアであった。
イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会に属する9名の神父をはじめ修道士、伝道士、主な信徒など25名が火あぶりの刑に処せられ、残りの32名は斬首された。この中には13名の婦人たち、1歳になる子を含む5人の子供たちがいた。「母やほかの人々の首が目の前に転がった時、彼等は自ら首を差し出すのが見えた」とレオン・パジェスは書いている。ドミニコ会に関係ある者は次の通りである。モラーレス、メナ、サルバネス、オルファネル、オルスッチの5名の神父は火あぶりの刑に処せられ、トマス・デル・ロザリオとドミンゴ・デル・ロザリオの2人の修道士は斬首された。それに31名のロザリオ信心会員がいる。
さて大村藩鈴田牢に残った8名の者は、大村で捕縛されたので、9月12日、放虎原の刑場で火あぶりの刑に処せられたが、彼等のうち、ドミニコ会関係者はスマラガ神父とマンショ柴田修道士である。また、9月23日、長崎矢上の牢ではオルファネル神父の宿主であったマチアス・マタエモンとその家族5人が処刑されている。
コリャード神父が日本を去って、ただ2人のドミニコ会士、カステリェットとバスケス神父が残った。長崎奉行所は棄教者からバスケス神父が変装して牢に潜入し、囚人の告白を聞いたことを知ったから、彼を捕縛するために全力を尽くしていた。たまたま、1623(元和9)年4月19日、バスケス神父が有馬に向かう途中、稲佐山の麓(現・ロープウェイの乗り場)にある農家に隠れているカステリェット神父を訪ねた時、そこへポルトガル婦人イネスがフローレス神父の遺体を埋葬しようとして運んできた。2人の神父が穴を掘りながら、話していたスペイン語を聞きとがめた捕吏が2人を捕えようとした。
カステリェット神父は無事に逃げたが、バスケス神父は捕えられて長崎の桜町牢へ、後に大村の玖島牢へ移されたが、放虎原で殉教する。
マニラの管区本部は日本の実状を知ると、4人の宣教師を派遣した。そのうちのリベラ神父は船中で死亡し、エルキシア、ルカス、ベルトランの3人の神父が、この年の6月19日に鹿児島へ上陸して長崎に着くが、スペイン人は国外追放されていると宣告された。11月末、一同を代表してエルキシア神父は奉行に日本出国を知らせ、ボルトガル船で港を出るが、沖合で待っているカステリェット神父の小船に乗り移り、長与の大草村に潜入して
日本語の勉強を始めた。神父が不足しているため、彼らは日本語の習得も不十分なままにこの地方に住むキリシタンの間で働き始めた。
ベルトラン神父はドミニコ会の聖人ルイス・ベルトランの近親者で、彼の愛徳は大村の信徒の心を深く捕え、1626(寛永3)年までそこで働いていたが、1人のキリシタンの裏切りにより、協力者であったマンショ(老人)とペドロ(16歳)の2人と共に捕えられた。神父はこの2人にドミニコ会士として入会を許可し、マンショ・デ
・ラ・クルス修道士とペドロ・デ・サンタ・マリア修道
士となり、牢内で修練期を始めた。1年後の1627(寛永4)年7月29日、処刑の日が知らされると、神父は2人の修道誓願を受け取り、共に火あぶりの刑を受けたのである。

翌年の6月、カステリェット神父も捕えられ、長崎から大村牢に連行された。牢内で、神父の2人の協力者はドミニコ会士として受け入れられ、数カ月間きびしい会則に従った修練期の後、トマス・デ・サン・ハシント修道士(30歳)とアントニオ・デ・サント・ドミンゴ修道士(20歳)となった。1628(寛永8)年9月8日、3人は他のキリシタンと共に長崎西坂において殉教した。
この頃、新たに長崎奉行となった竹中菜女は非情な弾圧を始めた。信仰の堅い者を島原雲仙岳に送り、彼等の体に熱湯をかけて苦しめ、生かさず殺さずに信仰を捨てさせようとした。きびしい詮議のために長崎を脱出したエルキシア神父は関東あるいは奥州でイエズス会士やフランシスコ会士と共に宣教していたが、管区長代理の任命書が届き長崎に向かった。その代りにルカス神父が京都へ出発した。彼は京都の隠れ家(山科音羽)から北陸や東北地方まで足をのばしてロザリオの信心会を組織し
ている。旅の途中で彼は日本人ドミニコ会士トマス西六
左衛門神父と出会って喜んだ。彼は生月の殉教者ガスパル西玄可の息子で、マカオに追放されていたが、そこからマニラに渡り、ドミニコ会に入会して聖トマス大学で研讃し、司祭となって日本に潜入していた。さらに1633
(寛永10)年2月、ルカス神父は山陰、北陸地方を経て奥州を回り、8月に京都の隠れ家へ戻っている。その翌月、彼の協力者マテオ小兵衛修道士と共に大阪で捕縛され、長崎西坂刑場で穴吊りの刑により殉教している。その日は10月18日で、ルカス神父の39歳の誕生日であった。1632年7月、ジョルダン神父とヤコボ朝永五郎兵衛神父がマニラを出発して日本に向かった。ジョルダン神父は無事長崎に到着してエルキシア神父と会えたが、長崎は危険なので、翌日ルカス神父のいる京都へ向かった。しかし朝永神父の乗った中国船は嵐に会い、朝鮮に流され、やっと薩摩に漂着することができた。年明けて3月、長崎へ行き、エルキシア神父の前に姿を見せた。大村出身の神父は長崎のコレジオを卒業した伝道士であったが、追放されてマニラに行き、そこで1624年の聖母被昇天の日、ドミニコ会に入会、1626年の聖母被昇天の日に司祭となった人である。長崎で3カ月働いたが、彼の従僕が拷問を受け、神父の居場所を自白したので、捕えられて大村牢へ入れられた。やがて長崎牢に移され、伝道士のミゲル九郎兵衛と共に西坂の刑場で穴吊りに処せられたのが奇しくも聖母被昇天の日であった。それから3日の後、神父は死んだ。
長崎では、管区長代理工ルキシア神父が10年間にわたって忠実な協力者であったフランシスコ正右衛門と共に捕えられた。ジョルダン神父を連れてきた中国人が仲間内の争いからそのことを奉行に自白したので、奉行所はエルキシア神父の人相書を配布して探索したからであった。牢内でフランシスコ正右衛門はドミニコ会士として受け入れられた。2人は朝永神父と同じ日に穴吊りの刑で殉教する。神父は46歳であった。
管区長代理エルキシア神父の死を知ったジョルダン神父はすぐに長崎に帰り、大村で潜伏しながら宣教していた。病気になって長崎に来ると、トマス西神父がいるのを知り喜んだ。2人は1634(寛永11)年8月4日、会祖聖ドミニコの祝日を祝うために水の浦という部落に潜んでいるところを逮捕された。長崎の牢に入れられ、水責め、竹串を爪先や局所に突きさすなどの拷問を受け、11月11日、最後に穴吊りの刑で絶命した。
2人と共に西坂の刑場に引出された69名の中に、ベルトラン神父の指導でドミニコ会修道女となった大村のマリアが火あぶりの刑で、またジョルダン神父によってドミニコ会修道女となった長崎のマグダレナは穴吊りの刑で殉教した。彼女の両親も殉教者であって天国において親子が再開することになった。
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