Convento de San José
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日本における宣教

(12)大村藩鈴田牢と放虎原刑場の殉教者たち

藩主大村純頼はナパレテ神父たちの処刑を密かに無人島でしたが、キリシタンである1人の刑吏が殉教の様子を詳しく教会に報告したので、人々の間に大きな感動を呼び起こした。管区長代理モラーレスは殉教者の遺志を継ぐためにスマラガとルエダ両神父を大村へ派遣した。両名は6月12日に長崎を出て鷹島に渡り、殉教者の遺体を捜しているキリシタンたちとミサを捧げてから大村藩の郡へ行き、そこでフランシスコ会のフランコ神父と共に働いた。「神父がいないため10年も20年も告白していない信徒がおり、また何年も前に棄教した大勢の者が立ち返った」と喜びを伝えている。しかし間もなくフランコ神父が、続いてスマラガ神父がそれぞれ6名の信徒と共に捕縛され鈴田の牢に入れられた。ルエダ神父は無事に長崎へ帰り、天草や他の地方で多数の棄教者を立ち返らせていた。

1618(元和4)年8月13日、オルスッチ神父が朝鮮宣教 に向かう3名のドミニコ会神父とマニラから長崎に到着した。しかし渡航上の手続きがうまくいかず、3名の神父のうち2名はマニラに帰り、ホアン・デ・サント・ドミンゴ神父はモラーレス神父の要請で日本に残ることになった。早速オルスッチとホアン・デ・サント・ドミンゴ両神父は朝鮮人コスメ竹屋長兵衛の家で日本語を勉強している時、伝道士トマスや賄い人のフアンと一緒に捕えられ、鈴田の牢へ連行された。12月13日のことであった。 この年は長崎キリシタンとドミニコ会にとって恩人である長崎代官アントニオ村山等安の失脚という出来事があった。彼はキリシタンであり、またマニラに追放された息子のフランシスコ神父が密かに潜入して大阪城内にいたことの責任を問われたのであった。このことから、幕府は「宣教師たちを匿う者に対して家族ともに火刑に処し、またその居場所を密告する者には銀30枚を与える」布告を出した。それでフアン鎖という若者の裏切りにより、1619(元和5)年3月14日、メナ神父が、その翌日、アンドレス村山徳安の家でモラーレス神父が逮捕された。
2人の神父はまず壱岐島の牢に入れられ、5カ月後に鈴田の牢に移された。
3月19日、昨年12月から鈴田の牢内に捕えられていたホアン・デ・サント・ドミンゴ神父が死去した。この牢は幅が約3メートル半、長さが約5メートル半あり、周囲も天井も鳥篭のように角材で作られ吹き曝しで、角材と角材の聞は指2本ほどしかなく、瓦屋恨で、床は厚い板が張ってあった。周囲には二重の柵があり、その外に昼夜監視する番人小屋がある。食事は飯2杯、粗末な菜1椀、大根の漬物が少し、時には塩漬けの鰯2匹、飲物は水か湯であった。衣類の洗濯も許されず不潔であり、用便も牢内であるから悪臭に満ちていた。オルファネル神父は弟に宛てた1621年9月21日付けの手紙に、「私は5カ月前から他の11人の司祭と共に囚えられています。その人々はフランシスコ会、イエズス会、ドミニコ会の修道士で、私たちドミ二コ会士は6人(スマラガ、オルスッチ、メナ、モラーレス、サルバネスとオルファネル)です。すでに3年、4年囚えられている者もあります。
1人の聖職者(トマス荒木で、後に棄教し、迫害者とな る)および多数の日本人もいて、全員で30名、それは皆福音の教えを説いたために囚えられているのです。牢獄は狭くて甚だ厳しく、食事は死者が出ないのが不思議なほど粗悪なものです。しかし私たちはこれを世界のあらゆる美味なものやあらゆる贈物とも交換しようとは思いません。この狭さは神によって与えられたものですから地上の国王たちの広い宮殿とも取り換えません。神に生命を捧げるためにここを出る場合のほかには、神がここから私たちを出したもうことがないように祈っています」と書き送っている。
修道者たちは牢内で修道院生活と同じ日課表にしたがってミサ、祈り、黙想、神父たちが交替でする講話など、修道者に相応しい生活をするように務めた。また、一緒に囚われている協力者を修道者として受け入れることにした。スマラガ神父と共に逮捕された伝道士マンショ柴田、長崎のサント・ドミンゴ教会で少年時代を過ごし、鷹島でナバレテ神父の殉教を見、後にオルスッチとホアン・デ・サント・ドミンコ両神父と共に捕えられたトマスの2人は修学修道士として着衣し、ラテン語の勉強を始めた。トマスと同じくナバレテ神父やオルスッチ神父に従っていて逮捕されたドミンゴ永田は修道士として着衣した。フランシスコ会は2人、イエズス会も6人を修道者として受け入れ、鈴田の牢は神に賛美と感謝の祈りを棒げる修道院と化したのであった。
鈴田の牢に近い所であるが、国道34号線から長崎空港に入る道の左側に「放虎原殉教記念碑」が見える。大村領内の至る所で殉教者の血が流されたが、ここは特に酷く200人におよぶ殉教者が処刑された。伊達政宗の命でローマに使いした支倉常長を案内Lたフランシスコ会士ルイス・ソテロ神父も生きながら焼き殺された。そのうち福者に列せられた者は14人、ドミニコ会関係者はスマラガ、バスケスの両神父、マンショ柴田修学修道士とドミンゴ日向である。

(13)コリャード神父の来日

1619(元和5)年7月末、コリャード神父が来日し、まだ逮捕されずに潜伏していた3人の神父、ルエダ、サルバネス、オルファネルを喜ばせた。彼はすぐれた言語学者で1年足らずのうちに日本語を習得し有馬地方で働き、また大村と長崎の中間にある古賀でオルファネル神父の宣教を助け、「日本キリシタン教会史」の編纂を勧めてそれに協力した。1621(元和7)年4月、大村の郡から長崎に行く途中の矢上で、コリャード神父はオルファネル神父が無残にも両手を縛られて鈴田の牢へ連行されていくのを目撃している。オルファネル神父が逮捕された後、宣教師を匿った宿主はすべて投獄されたので、長崎に潜入したコリャード神父は契約という方法で宿主を見つける。家族全員の同意の上で、宣教師、特にドミニコ会士に隠れ家を提供する宿主とその家族は誰よりも優先的に告白や聖体の秘跡などの霊的配慮を受けることができるという契約で、彼は18家族を見つけることに成功している。その多くの宿主は迫害者の手に落ち、殉教していった。
彼はすぐれた知性と豪胆な性格の持主で、スペイン商人の風体スペイン人のグループを従えて堂々と長崎、矢上、大村の牢を訪ね、キリシタンたちや他の囚人の告白を聞き、殉教への準備をさせた。また有名な平山常陳事件では捕えられたドミニコ会士フローレス神父を平戸のオランダ商館から救出する計画を2回も試みて、一度は救出に成功したが、思いがけない出来事で失敗している。サルバネス神父が逮捕された後、たった1人で、来日したばかりのカステリェットとバスケスの2人の神父を指導して宣教に務めた。
コリャード神父は1622(元和8)年の大村放虎原刑場と長崎西坂刑場における大殉教の様子を目撃し、それをオルファネル神父の「日本キリシタン教会史」の「補遺」 に書き残している。それから在ローマ至聖ロザリオ管区事務に任命されて日本を去るが、その前に教皇庁礼部聖省特派使節として日本二十六聖人の殉教に関する教会法的調査手続きを開始した。毎日隠れ家を変えながら、ある時は海上の船の中で謂査書を書きあげ、11月始め、それを持ってマニラ経由でローマに向かった。
ローマでは在日イエズス会にたいする反論、ポルトガル布教保護権の問題、日本宣教事業を維持するための貿易の問題、在日諸修道会の対立を避けキリシタン益あるような教会組織の問題などについて膨大な文書活動をするとともに、「日本語文典」、「羅西日辞典」、「日本語による告解提要」などを出版している。さらにコリャード神父は極東における宣教を目的とする「サン・パブロ宣教修道会」の設立認可を受けてフィリピンに来たことから至聖ロザリオ管区と対立することになった。後に管区と和解し、スペインに帰る途中フィリピン沿岸で船が遭難し、溺死した。1641年のことであった。

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